19
帆淡はそれから五日間ぐらい寝込んでいたらしい。母が毎日のように晴子さんと連絡を取って、確かめてくれていた。
僕はその間、天野と元通りになるのにとても苦労していた。英語の授業のグループワークでペアを組んだりしていたので話す機会はあった。いつも通りに喋るところまでは簡単にできたが、帆淡の話をどう持ち出したものかと悩んでいた。先にその話をしたのは天野の方だった。
「安西に会ったか?」
体育で卓球の順番待ちをしていた時だった。突然僕のところにやってきたと思ったら、天野はそう言った。
「会ったよ。風邪引いてふせってた。天野のことは、特に何も言ってなかったよ」
「そっか。でも別に、謝ろうとも思わないけどな。俺、安西は逃げてるんだと思う」
「うん。たぶん」
小さな帆淡の姿がちらつく。天野の言葉も。守られる立場があるなら守る立場もなくちゃ、おかしい。僕は口を開く。
「天野の言ってることは間違ってないと思う。僕も、守る側になりたいよ」
それからはほとんど前と同じみたいだった。雨が降っても、公園に行こうとは言わなくなったけれど。天野と帆淡が会うことは、もう、ないんだろうか。
ある日、学校から帰ると、家に帆淡が来ていた。うちに帆淡が来るのは随分と久しぶりだった。
「帆淡、体調はもういいの?」
「うん。熱は下がったの。今日は色々の、お礼を持ってきた」
色々と言うのは、この間のお見舞いと前に持っていった野菜のお裾分けのお礼ということだった。晴子さんに持たされて、近所の人がたまたま車で送ってくれてうちまで来たらしい。
「叶方、公園に行こう」
僕は天野の名前を帆淡の前で出すかどうか、迷っていた。けれど帆淡のあどけない表情を見ていると、そんな気にはなれなかった。またあの日みたいに不用意なことを言って、帆淡の瞳の奥を見るのが、怖くなってしまうのだ。
今日も雲は浮かんでいたが、朝からなんとか晴れていると言えた。もう夕陽の差してくる時間帯だ。久しぶりの外出に帆淡は心なしか浮足立っていた。白いワンピースは、常に僕の少し先を行って誘うようにひらりひらりと揺れている。ずっと体型の変わらない帆淡が何年も着ているもののうちの一着であるわりに、目が覚めるような白さを保っていた。あんなに公園にばかりいて、頓着もしないのに、どうして汚れないんだろう。やっぱり帆淡の周りでは時の流れとか何かの次元が、ねじ曲がっていたりして。子供じみたことを考えながら公園についた。帆淡は嬉しげに駆け出して、先にグラウンドを横切って行く。
公園に足を踏み入れた瞬間、異様な空気を感じた。グラウンドの向こう、遊具が集まっているあたりに、ちょっとした人だかりができていた。手前で一旦立ち止まっていた帆淡もそこへ向かっているみたいだった。早足で帆淡に並ぼうとする。
「帆淡」
覗き込んだ時、帆淡は奇妙に不安気な表情を浮かべていた。唇や頬が色を失って、水晶みたいな瞳が揺らめき出す。
「……叶方」
「帆淡?」
「いやな、いやな予感がする。大人がたくさんいる。あっちにもこっちにも。それに、あそこに何かがある」
人だかりの方に目を遣れば、人々は何か掲示物を見ているようだった。帆淡が大人と言っているのはそこにいる人たちだけじゃない。今日もスーツ姿の黒い大人たちが、何人かずつでまとまって公園内に腰を据えているようだった。
僕は帆淡の手を取って、人だかりに近づいて行った。見覚えのある人もいる。誰の顔を見ても、険しい表情が浮かんでいた。
人をかき分けて、帆淡の手を引きながら掲示内容の見えるところまで近づいて行った。
「……帆淡……」
「……叶方?」
「公園が……」
そこには、近隣住民の皆様へということで、この公園が取り壊されるということについて、極簡単に述べてあった。
公園がなくなる? 帆淡の心の拠り所が? 家に居場所を失った、いや、最初から居場所んか持たない帆淡が唯一、居るべきところと認識している場所。花があって、人がいて、猫がいて。僕が会いに来て。大人たちが取り壊す。だからあの時も、今も、大人たちは、ここに。
「なくなるんだって……」
僕は帆淡の顔を見ることができなかった。小さな小さな手は、ふわりと溶けてなくなってしまうんじゃないかと思った。
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