17

「……だって、大人は」

何も言いやしないのに、帆淡の最初の言葉は”だって”だった。

「置いていく。無責任に。自分勝手に。生きていく。ひとりで。私は私で、帆淡でいいと思った」

 言葉が返ってきたことに、僕は正直なところ驚いていた。まともな、その、理由らしきものを聞いたのは、おおよそ初めてのことだったからだ。

 帆淡でいいと思った。帆淡は子供なんだ……。帆淡は大人じゃない。

「私は大人に成りたくないよ、叶方」

 帆淡の手から、生気を失った花がぽとりと落ちてきた。その命は僕の足元で終わりを迎えた。そう思ったけれど、本当は違う。本当は、もうとっくに、帆淡がその手につかんだ時点で、この命は絶えていたんだ。

「ぼ……」

「安西はさあ」

 僕の言葉を遮って、天野は冷たい声を出した。

「逃げてるだけなんだよ」

 帆淡が天野の顔を見る。天野も帆淡の顔を見ていた。古びた机を挟んで、二人は、もしかしたら初めて、まっすぐに視線をぶつけ合う。

「だって大人になりたくないなんて、そんなの無理だって。本当に嫌なら、本当に大人になりたくないんだったらさ、死ぬしかないんだよ。だって俺たちは産まれた瞬間から大人になるために生きてるんだよ。安西はなんのために生きてるわけ? そりゃ子供でいられたら、守られる立場でいれば楽だろうけどさ。守られる立場があるなら守る立場もなくちゃおかしいだろ? いつまでも子供でいたいなんて、そんなの逃げてるだけなんだよ!」

「違う!」

 帆淡は怒鳴って立ち上がった。ベンチと机が一緒に震えて、三本の傘がバラバラと地に落ちる。

「私は子供でいたいんじゃない! お、大人に成りたくないの!」

「どう違うんだよ!」

「違う!」

 帆淡は天野を睨み付けると身を翻し、雨の中を駆け出して行ってしまった。僕は一瞬の躊躇の後、傘をつかんで帆淡を追いかける。泥を跳ね上げながら走っていく帆淡は思いの外速くて、僕が帆淡の腕をつかんだのは公園を出てからだった。

「いや!」

「帆淡!」

 びしょ濡れになった頭をつかまえて、どうにか傘に入れようとする。帆淡はしばらく暴れていたが、やがて大人しくなった。カッターシャツの胸のあたりにじわじわと水が染み込んでくる。僕は帆淡の透明な傘を開いて、右手につかませた。

「……叶方ぁ」

 喉の奥からずるずると這い出て来たような声だった。しっとりと重みを含んだ音で作られた僕の名前は、ぴたりと僕の身体のどこかに貼り付いて離れなくなる。

「私は、私は、大人に成りたくないよ」

“僕もだよ”

天野に遮られた僕の返事が出てくることは、二度となかった。

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