16

 次の週の雨が降った日に、またサッカー部が休みになったということで、僕と天野は連れ立って公園へ向かった。大抵は雨でも筋トレがあるが、時折顧問の気分で休みにもなるらしい。

 その日は放課後にも小雨がぱらついていた。天野は黒色の、僕は紺色の傘をさして学校を出る。

 公園へついた時、遠くの方に、やたらと綺麗な水色が見えた気がした。帆淡の傘は透明なビニール傘だ。近づいて行くと、水色の傘の持ち主は担任だった。

「……げっ」

 天野があからさまに嫌そうな声を出す。天野がここへ来て、担任と行き会うのは初めてのことだった。今までは運良く避けられていたのだ。

「めげねえ大人だなあ」

 帆淡は遊具の下に隠れているらしかった。担任はその傍らに立って、表情を変えない小さな小さな女の子をじっと見つめている。あるいは何か言葉をかけているのかもしれないが、ここからでは見えなかった。そうだとしても、きっと帆淡の耳には何も届いていないのだろうけれど。

 しとしとと降り続ける雨が薄いベールのように、遠くに見えるその光景を覆っていく。きっと担任の視界にもそのベールはいくつも重なっていて、帆淡の黒い髪や、白い肌や、片手に持っているだろう花を見えなくしている。蝶の舞えない雨の日に、帆淡はどんな風に僕の名前を呼ぶだろう。

 僕はなぜか、望遠鏡で覗いた土星の静止画を思い出していた。

「……僕、天野に土星の話をしたっけ」

「は? 土星? ……やべっ、こっちに来る。隠れよう」

 天野に背中を押され、僕らは近くの藤棚の裏に隠れた。スーツを着て四角い鞄を持った担任は、綺麗な水色の傘を、何かの旗印のように真っすぐに掲げて、公園を出て行く。

「で、土星がなんだって?」

「ううん、なんでもない。……帆淡のところに行こう」

 帆淡は遊具の下から這い出て、屋根のあるベンチに向かっていた。透明なビニール傘をさして、片手には白い花を持って。僕らが来ているのに気づくとちらりと視線を上げ、またすぐに落とした。

「帆淡」

 ベンチに座った帆淡の傘をたたんで、木造りの机の端に引っ掛ける。帆淡は足をぶらぶらさせ、いつもより浮かない顔で足元を眺めていた。

「この間の怪我はもう大丈夫?」

 帆淡は黙って手を差し出してくる。指の先には小さな跡が残っていたが、すぐに治って消えるだろう。

「帆淡、さっき先生に、何か言われた?」

「……別に、いつもと一緒」

「いつも、何を言われてるんだ?」

 向かい側のベンチに腰掛けた天野が、机に頬杖をついて尋ねる。

「学校のこと」

「それだけ?」

「叶方のこと」

「へえ。他には?」

「……人生のこと」

「ふーん。人生か。人生ねえ。そんで安西は、人生について考えんの?」

 帆淡は顔を上げ、驚いたような表情を天野に向ける。

 人生についてなんて、帆淡が考えているわけがなかった。人生とはつまり、成長の歴史だ。進学すること、大人になること、そして死も受け入れられない帆淡にとって、人生なんてものは、存在のしようがないのだ。

「俺は考えるよ。いい高校行って、いい大学行って、俺はサラリーマンになる。将来の夢なんか別にねーよ。なんでもいい。なんでもいいから、金が稼げる大人になりたい。金が全てじゃないとかよく言うけどさ、本当は、大抵のことは金でなんとかなるんだよ。だからこそ汚い大人ってのはわんさかいるんだろ。そんだけ価値のあるもんだってことだ」

 天野が流れるように喋っている間に、雨脚は強まっていた。屋根にあたる雨粒の音が激しくて、しばらく沈黙が訪れる。帆淡の顔を見ると、泣きそうな顔をしていた。手に持った白い花がどんどん萎れていく。僕はベンチの横でしゃがみこんだまま、頬を引きつらせる帆淡の顔を見上げていた。

「…………帆淡は」

 ゆっくりと、帆淡が顔を向ける。帆淡の瞳は、黒々と、極めて黒々と奥の方まで続いていた。

「大人に、なりたくないの?」

 強く、風が吹いて帆淡の髪を舞い上げた。表情が遮られる。僕はただまっすぐに帆淡を見上げていた。そんな自分が、再び見えた帆淡の瞳に映っていた。

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