14

「安西は……遠出したりしないのか」

 帆淡はそっと顔を上げた。困ったように天野を見て、僕を見て、もう一度天野を見て、口を開く。

「……しない」

「駅に行ったことは? もしかして、この町から出たこと、ない?」

 帆淡はやっぱり困ったような顔をしていた。同時に僕はその質問について考える。確か小学二年か三年の頃、うちの家族と帆淡とで、水族館に行ったことがあったような気がする。

「わかん、ない」

 帆淡は少しだけ僕たちに近づいてきて、砂の中で手をもぞもぞやり出した。

「そっか」

「隣町までなら一回だけあるよ。覚えてる限りだと」

「真山も一緒に?」

「うん。うちの家族と一緒に。でも電車じゃなかったから駅には」

 その時突然帆淡が悲鳴を上げて、砂の中から手を引き抜いた。見ると、左手の中指の先に切り傷ができていた。そんなに深くはなさそうだったけれど、傷が広くて、血が伝っていた。赤い滴が第二関節のあたりをつるつると通り過ぎる。インクみたいだ、と僕は思った。

「わっ、血出てんじゃん。なんか埋まってたのか?」

「……あった。これだ」

 帆淡が探っていたあたりをそろそろとかき分けてみると、結構な大きさのガラス片が出てきた。危ないので砂場の縁に置く。帆淡は右手で血の出た指の付け根を抑えて――震えていた。

「いやっ……」

 顔を背けてか細い声を出す。そうだ、帆淡は。

「どうした? そんなに痛いのか?」

「帆淡は、血が苦手なんだよね。昔はそうでもなかったと思うんだけど……去年の秋に僕が運動会で転んで、帰りに帆淡に会った時も、包帯から滲んだ血を見て悲鳴を上げてたね」

 僕は帆淡の手を取って顔を覗き込みながら、天野に対して説明をした。

「……ふぅん……血が、ね……」

 傷口に触れないようにしながら近くを圧迫していると、やがて血は止まった。手のひらまで垂れた血が服に付いたりしないように拭ってやる。僕たちは帆淡を水場まで連れて行き、傷口を洗った。天野が絆創膏を持っていたのでとりあえず指に巻く。そこまでやっても帆淡はまだ蒼白な顔をしていた。口をきゅっと引き結んで、絶対に目を合わせようとしない。

「今日は、帰ろうか。おうちで消毒した方がいいかもしれない」

 僕らはいつもみたいに三人並んで帆淡を家まで送っていった。帆淡と別れて途中まで同じ道を行っている時、天野は、久しぶりに帆淡についての質問を口にした。

「安西ってさ…………病気なのか?」

 天野には、帆淡の身体の異常性についてはっきり説明していたわけではなかった。だけど、ただ単に小柄な女の子、だと思っているわけではさすがにないだろう。それにしては帆淡はあまりにも小さすぎるし、一人では小学校高学年向けの本が読めないことも察している。何だかよくわからないが、人には言えない事情を抱えた子、ぐらいに思ってくれているんじゃないだろうかと僕は勝手に思っていた。

「はっきりした病名があるわけじゃないんだ。身体は健康そのものだし、知能は、僕たちと同じ年齢だと思うと遅れているように思うかもしれないけど……でもたぶん、そういうことじゃないと思う。帆淡は、その、家庭が複雑になった頃から、成長がとてもゆっくりになってしまったみたいなんだ」

「成長がゆっくり……なるほどな。それでか」

「帆淡は年齢を考えなければ普通の女の子だし、僕は……むしろ、帆淡の周りでだけ、時の流れの速さが変わってしまったんじゃないかなと思う時がある」

 こんなことを誰かに言うのは初めてだった。母親にも言ったことはない。

 天野は肯定も否定もせず、うつむいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る