10

 その日、帆淡はやっぱり家にいたらしかった。僕が家へ帰って、公園に帆淡がいなかったことを母親に報告すると、母親が安西家へ電話して勝手に確かめてくれたのだ。

「お布団被って、寝てるらしいよ。それから、お野菜ありがとうって」

「ふうん。身体以外の様子は、変わりなかったのかな。それから、あの、先生は」

「さああ? 特に何も仰ってなかったけどね。なんだか最近多いような気がするけど帆淡ちゃんってそんなに脆弱だったっけねえ。あんなにちっちゃいし細いし、つっついたら倒れそうな見かけはしてるけどさあ。あと担任の先生のことも、何も。未だにそんなしょっちゅう来てるの? あの人。気にかけてくれるのは悪いことじゃないけど、ちょっとしつこい感じがするわねえ」

 担任は本当にそのまま帰っていたのか。帰って、というか、学校に戻ったんだろう。しかし、せっかくこちら側まで来て、安西家には寄らなかったというのは、どうしたことか。担任もそろそろ帆淡に執着することに疲れてきたのだろうか。大人な上に先生である担任はきっと、僕なんかには本当のことが言えないのだろう。

 僕はそれから二日空けて、木曜日の放課後に公園へ向かった。帆淡もそろそろ復活しているだろうと憶測してのことだったが、当たっていて、その日はすぐに花をいじくる帆淡を見つけることができた。

「帆淡」

「叶方」

 帆淡の隣にしゃがみ込む。帆淡が愛でていたのは紫陽花だった。まだいくつかしか開いていなくて、遠目ではわからない。

「青いろ」

「うん」

「ぴんく、いろ」

 同じ株の中に別の色の花弁を見つけて、帆淡が呟く。

「紫陽花って花は、土壌になる土の性質によって、つける花の色が違うらしいね」

「へええ。……叶方は、なんで、知ってるの」

「なんで? なんでだろう。本で読んだのかな」

 聞いておきながらあんまり興味無さそうに、帆淡は返事をしない。赤紫の花弁を穴の開くほど見つめている。まるで、何かを問いかけるように。

 濃い緑色の葉っぱの上を、でんでんむしが、のらりくらりと這っていた。

「……本といえばね、帆淡。図書館で物語を借りてきたけど、読む?」

「うん。叶方が読んで」

 僕はベンチに腰掛け、帆淡のために物語を朗読してあげた。帆淡は時々僕の手元を覗き込みながら、時々ぼんやりしながら、時々耳を傾けている。

 区切りのいいところで、一旦本を閉じた。読むのも疲れてきたし、帆淡の集中力も段々無くなってきた気がしたからだ。

 今日は曇っていて、西日は射してこない。猫も今日はいないな、と思い出す。

「そういえば、帆淡。身体の具合はもう平気?」

「平気」

「そっか。それでね、その」

 僕はかなり不格好な感じで本題を切り出した。

「日曜日のことなんだけど、ごめんね。天野が急に来て、帆淡もびっくりしただろうけど僕もびっくりして、帆淡のことを置いて行っちゃった」

 帆淡は僕の発言を意外なものとは捉えなかったらしい。ふむ、という感じで前を向いたまま、ぱちり、ぱちり、と瞬きをしている。もしかしたら待ってすらいたのかもしれなかった。やっぱり長くなったように思える繊細なまつげが上下する様を、刑罰を言い渡されるのを待つ罪人のような気持ちで眺める。

「あの男の子」

「天野?」

「もう、来ないよね」

“俺、また会いたいな”

 天野の声が蘇る。僕は返すべき答えがわからなくなる。

「……帆淡はもしかして、天野のこと、大人だと思った?」

 帆淡の顔には虚を突かれたような表情が浮かぶ。しばらくして、カク、カク、と機械仕掛けの人形のような動きで頭を傾けた。いや、首を傾げたのだろう。

「…………男の子?」

「そ、そうだよね…………あれっ」

 その時、公園の入り口のところに中学の制服を着た人物が見えた。小柄で、襟足が長めで、エナメルバックを提げた――男の子。

「あ、ま」

 の、の声が出る前に帆淡がそちらを向く。また目を見開いて、帆淡は固まる。天野は僕たちに気付くと早足で向かってきた。声をあげることも、手を振ることもなく。まっすぐこちらへ向かってくる。

「よっ!」

 最後はジャンプするようにして、天野は僕たちの目の前に到着した。

「いたいた、よかったー。今日真山行くって言ってたけど、いなかったらどうしようかと」

「……そうだね」

「何してたんだ? 本?」

 僕が膝の上で開いていた本のタイトルを見て、天野はぱっと顔を輝かせる。エナメルを肩から下ろすと、どかっと派手な音を立てて地面に置いた。帆淡が隣で跳ねる。

「これ、俺も昔読んだよ! ばばあに読まされたんだけどな。すげー嫌だったのに読んでみたら面白かったのが悔しくて、覚えてる。これって主人公が最後にさ――って、まだ途中だよな。あぶね」

 天野は自分の口を押さえる。いきなりまくし立てられて驚いてしまい、その前にやりとりすべき言葉がわからなくなった。何しに来たの? は感じが悪いし、それに、きっと答えはこうだ。


“安西に、会いに来た”


「……部活は?」

「顧問の都合で早く終わったんだよ。自主連パスしてきたから睨まれるかもな。どっちにしろ、天気が――って、お前ら二人共傘持ってねえの? 今日の降水確率八80%だぞ」

 そういえばそうだった。出がけに母に注意された気がする。学校に置き傘をしているため、出る時に降っていなければ忘れることが多い。

「確かに天気悪いな、降ってきそうだ。それじゃあ帆淡は、そろそろ帰ろうか。病み上がりだから雨に降られるとまずいし」

 帆淡は僕の顔を見て、天野の持っていた黒い傘を見て、こくりとうなずいた。天野は、自分が来たところなのに、などとは言わない。代わりに「途中で降ったらやばいし」ということで帆淡の家までついて来ることになった。日曜に一度来ているから家を新しく知られるわけでもないし、僕は了承した。帆淡は何も言わなかった。

 

 水滴を孕んで張りつめたような曇り空の下を、僕らは三人並んで歩いた。歩道側から、帆淡、僕、天野の順。しばらくは僕だけを会話の相手としていた天野だったが、公園を出たところで、帆淡へと言葉を投げかけた。

「安西はさあ」

 帆淡は肩を震わせる。今日も白いワンピースをひらひらとはためかせてゆっくりと歩く帆淡は、水槽の隅に追い詰められた海月みたいだった。

「何月生まれなんだ?」

 意表をついた質問に、帆淡は思わずといったように顔を上げた。当然僕にでも答えられるものだったが、天野の視線は明らかに僕を通り越していて、ここで声を上げるのは明らかに不自然だった。まっすぐには顔を向けず、横目で帆淡の動向を伺う。

 帆淡は、僕に答えるつもりが無い様子を見て取ったらしい。十歩分ぐらいあった沈黙の後で、まるでねじ開けられたように、口を開く。

「……く、きゅぅ」

「ん?」

「九月」

「へえ! んじゃ俺よりお姉さんじゃん。俺十二月生まれだもん。真山は?」

「七月だよ。三十一日だからぎりぎりだけど」

 質問の意図がわかって、なんとなく感心してしまう。自分が十二月生まれなら帆淡が自分より「お姉さん」である確率はかなり高い。もっともその事実を帆淡が喜ぶかというと、怪しいところだが。

「なんか幼児の頃から仲良いんだっけ? てことは二人共生まれてからずっとここ住んでんのか」

「うん。僕も帆淡も市民病院で生まれた。天野は違うんだ? 小学校どこだっけ」

「北小だけど、三年の時引っ越してきた。つっても隣町からだけどな。ばばあが今働いてるとこ」

 天野がおっという顔をして帆淡の方を見た。どうやら帆淡は、ちゃんと僕らの会話を聞いていたらしい。

「俺の母親、小学校の教師なんだ。父親はいねーけど」

「…………わたしも」

 目を逸らしつつ呟いた帆淡の言葉に、僕らはびっくりする。返事がなかったとしてもさほどおかしくはない場面だったからだ。それ以上の説明をするつもりはないようだったので、置き去りにされた天野に僕が付け加える。

「父親がいない、って部分。帆淡のお父さんは、数年前に亡くなってるから」

 もちろんそれは里親のお父さんのことで、帆淡の本当の両親のその後のことは僕も帆淡も知らない。たぶん僕の母も知らないのだろう。何かあった時のためにと、帆淡のことを頼んだ当時の無責任な置手紙は保管しているらしいが、今は大して気にもしていないようだ。

 だから、帆淡がなくした親は、本当は三人目。天野は知る由もないことだけれど。

「……そうなのか。まあでも数年前ってことは、父親って存在はいたわけだしな。俺は生まれた時からいなかったから、父親って存在わかんねえし、寂しいとかも今更ないけど。同じってわけじゃ、ないよなあ。でもいなけりゃいないでなんとかなるもんだから」

 天野は励ましているつもりかもしれなかった。行き違いがあるため恐らくそれはあまり帆淡に伝わってはいないが、説明するほどのことでもない。僕は帆淡の「わたしも」の意味を考えていた。

「母親は、働いてたりしないのか」

「お父さんが亡くなってから帆淡のお母さんは、すごく気が沈みがちで、今は何も。それでうちの母親も気にかけたりしてるんだけど」

「ああなるほど、それで、真山もな」

 帆淡の前で言うことではないような気もしたが、晴子さんのことを詮索されることは避けたかった。今は、も何も、少なくとも経済的な面では今後も晴子さんが働く必要はない。亡くなったお父さんは老後の蓄えを十分に残して逝ってしまったし、彼が引退した自営業の仕事は親戚筋の人が受け継いでいるらしく、頼れる場所もある。

 でも、考えたことはなかったけれど、生活のためではなく晴子さんのために、仕事をするというのは意味があることのような気もする。適度に距離を置くことは帆淡との関係を見つめ直す上でも有効かもしれない。帆淡の面倒は、うちで見ればいいし。晴子さんはそういうことを、考えてはいないんだろうか。

 天野が勝手に納得してくれているうちに、帆淡の家へ到着した。天気もなんとかもってくれた。「わたしも」以降帆淡は何も発言しないまま、安西家の鉄扉を、ぎいっと開ける。

「それじゃあね、帆淡」

「じゃあな安西」

「…………うん」

 扉が開く前に立ち去ろうと思った。晴子さんと天野が鉢合わせることで起こり得る事態を、僕は億劫に思った。

「ばいばい、叶方」

 背を向けかけた途端聞こえてきた帆淡の声に、僕はゆっくりと手を振った。

帆淡の家から少し行って、それぞれの家へ帰る道に分かれるまで、天野は帆淡のことを何も言わなかった。また明日、と、天野とも手を振って別れた。

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