8
天野と帆淡の邂逅は、僕の思いも寄らぬ形で叶った。
日曜日、僕の家に田舎から大量の野菜が送られてきたので、帆淡の家にお裾分けすることになった。晴子さんはいないが、帆淡に渡せればそれでいいだろうと、僕は新鮮な野菜を持って帆淡の家へ向かった。
日曜日に帆淡に会うのは、都忘れを賄賂に持って行ったあの日以来だ。行く途中で花を見つけたら持って行こうかとも思ったが、アスファルトの道路脇に緑が育つのはなかなか難しい。公園に寄って行くほどの甲斐性は無く、そのまま帆淡の家に着いた。
野菜の入った箱を玄関に置いてしまいたかったので、礼儀正しくインターホンを押した。庭にいたらしい帆淡が、物陰から僕の顔を確認し、玄関の方に走ってくる。
「叶方。今日は、叶方が来る日?」
ポーチの鉄扉をうんしょと開けて、白いワンピース姿の帆淡が現れる。一段下にぴょこんと降り立つと、風に煽られた絹糸のような真っ黒い髪が、はらり、はらりと遅れて肩の上に着地する。
「今日は、お裾分けだよ」
僕の持った箱を覗き込む。鮮やかに瑞々しい野菜を見つけて、にっこりとほほ笑む。
その時後ろから、ずるり、と、何かを引きずるような音が聞こえた。
「安西……?」
天野だった。彼は体操着を着て、首からタオルをさげていた。アスファルトに靴底を擦り付けるように、ずる、ずる、とにじり寄ってくる。身体より大きなエナメル鞄が重たそうで、今にひっくり返るんじゃないかと思った。
「安西って、え? 同級生だよな?」
帆淡の方を見ると、野菜の箱に手をかけたまま固まっていた。天野を見上げる瞳はふわふわと揺れ動いて、まるでその水晶の中の淡水で小魚を飼っているみたいだ。柔らかに揃ったまつげが、ぎゅんと伸びたように見えた。白い袖に包まれた肩が震える。怯えたように歪んだ口元もわなないていた。
「天野……なんでここに」
「部活終わって、今日暇だし、なんとなく、お前んち行こうかなって思いついて。ほら前漫画借りる約束とかしてたし。そしたらお前が出てくるの見えて、なんか大きい箱持ってたから、ピンと来て。尾けたりして悪かったよ。でも俺」
僕の横に並んだ天野が帆淡を見下ろす。太陽を遮ってできた陰が帆淡の瞳を覆う。
「安西に会ってみたかったんだ」
天野の視線から逃れるように帆淡は僕の後ろに隠れる。寄るべの無い仔ウサギみたいに。
「めちゃくちゃ小っちぇえからびっくりしたけど、まあ別にそういうやつもいるよな。同い年なんだろ?」
「……うん、生まれてから、もうすぐ十三年ってことは、間違いないよ」
「なんかすげえ怖がられてる気がすんだけど」
「帆淡、こちら、僕たちと同じクラスの天野だよ。前に話したよね。帆淡に会いたいって言ってた」
「天野、勇飛です」
初めまして、と付け加える。僕たちの年で、そんなふうにかしこまって挨拶をすることはあんまりない。帆淡は僕の背中から微動だにしなかった。
「帆淡……」
促すように呼び掛ける僕の声を、帆淡は聞き入れない。天野を見上げて、言葉を探すでもなく、じっと息をひそめる。
「別に、学校来るように無理強いしに来た、学級委員てわけでもねーし、担任とも違うし、そんな警戒しないで欲しいんだけど」
帆淡は、息を、ひそめ続ける。
「…………なんか、ごめん」
「天野が謝ることじゃないよ……」
帆淡のこの反応は、わかるような気もしたし、わからないような気もした。関わる人間のとても少ない帆淡のことだから、突然新しい登場人物が自分の前に現れればそりゃあびっくりするだろう。名前を呼ばれれば、警戒もするだろう。
だけど、天野は大人じゃない。
見た目だってどちらかと言えば小柄だし、声変わりもしていない。帆淡が天野を大人と認める理由はないはずだ。なのに、待ってみても声すら出そうとしない。
「突然来て悪い。帰るよ。でも、また来るから」
帆淡の反応に困ったらしい天野は逃げるような姿勢で、しかし礼儀正しく場を辞する。手を振って見せるその表情は、微かに笑ってさえいる。
僕は、安西家の鉄扉を開けて、玄関の前に野菜の入った段ボールを下ろした。帆淡の髪を少し撫でて、「じゃあ、また」と言い残す。帆淡は目を丸くしていた。
僕は、小走りで天野を追いかけた。
「これ、どーも」
月曜日、教室に入るとすぐ天野に声をかけられた。差し出された本屋のビニール袋には貸した漫画が三冊入っている。
昨日天野に追いついた僕は家に誘った。せっかく来てくれたんだし、と。天野の家は学校を挟んだ向こう側なのだ。
しばらく喋ったり漫画を読んだりしていて、天野が帰る時に、読み残した三冊を貸した。天野は「お邪魔しました」と言って僕の家を出て行った。
「今度はうち来いよ。漫画は無いけど、ゲームならあるから」
「サッカーの?」
「サッカーと、野球も。星座は無いけど」
星座のゲームってどんなんだよ、なんて話をしながら、天野がいつも通りなのでほっとする。本当は、内心どきどきしていたのだ。昨日天野に追いついて、後ろから声をかけた時も。
天野は、どう思っただろう。
帆淡の、ことを。
予鈴が鳴る。前を向きかけた僕を引き留めるように、ぎりぎりで天野はその名前を出した。
「安西、さ」
「……ん?」
「怖がって、たのかな、あれは。なんかごめん。一言も喋らなかったよな。小動物みたいに、お前の後ろに隠れて。もしかして、怒ったかな」
「怒っては、いないよ……。怖がってたというか、きっと、びっくりしたんだと思う。僕以外の同級生と関わるのなんて、久しぶりだったから」
「不登校児って、もっと暗いもんかと思ってた。けど、安西、は。……俺、また会いたいな」
「えっ」
自分以外のどこかから聞こえたのかと思うほど、無意識のうちに飛び出た声。天野も妙に感じたらしく、顔を上げて僕の口のあたりを見る。
「……帆淡に」
天野はじっと顔を向けていた。けれど、彼が僕の返事を待っているのか、そうでないのかはわからなかった。だって、どう考えたって待つ必要なんてものはなかった。「いいよ」というのも「だめだよ」というのもおかしかった。それは、僕が決めることでなければ、帆淡が決めることでもなかった。天野がそう思った時点で、決まっているようなことだった。
だから僕は、ふうん、という顔をして、前を向いた。
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