遠足が終わってからあったロングホームルームでこのクラスで初めての席替えがあり、僕は天野と前後の席になった。黒板を見て僕が引いた番号が示された場所へ机を運んで行くと、僕の後ろの席に机を落ち着けていた天野が、おっ、という顔をする。

「真山じゃん」

「よろしく」

 椅子を降ろして教室を見渡すと、担任が一つの机を運んでいた。帆淡の席だ。

「先生、やたら安西のこと気にしてるよな。教師としては当たり前か」

 振り返って天野を見ると、担任が赤ぶちの眼鏡を中指で押し上げる時の真似をしていた。特に似ているというわけでもなかったが、別に笑いを取るためにやったわけではないのだろう。

「いじめられて不登校とかってのはあるみたいだけどさ。親もよく言ってる。初日から一度も来ないままっていうのは珍しいんだろうな」

「まあ、そうだろうね」

 天野の母親は隣町で小学校の教師をやっているらしい。遠足のバスの中で話してくれた。父親はいない、ということも。そのことも影響してか天野の母親はいわゆる教育ママで、躾にもとても厳しい人なのだそうだ。私立の学校に行く余裕はないため勉強面は家庭で鍛えられているのだという。

「それにしても、あれはどうなんだろうな」

 前を向くと、担任は教壇に戻っていた。そして、僕の席から右斜め前に桂馬飛びで進んだ場所、中央ブロックにの最前席に、主のいない机が置かれていた。帆淡の席。

 その場所だと、班分けをすると僕と同じ班ということにもなる。

「……一番前が空いてると目立つね」

「目立たせてんだろ?」

 席替えはくじ引きで行われたが、引いたくじを回収して最終的に黒板に発表したのは担任だ。その結果がこうあってなお、全てが偶然の産物であると信じる程、僕らの心は純粋ではない。

「クラスのやつらの意識が安西に向くようにしてる」

「…………あり得る」

 実際、クラスに存在するべき者としての帆淡を、大半の人は忘れかけていただろう。姿すら一度も見たことがないのだから、仕方のないことだ。彼らが知っているのは、安西帆淡という名前、女子という性別、それだけだ。帆淡の真っ黒な髪を、頼りない声を、何年も前から変わらないように見える小さな手を、知っている人は誰もいない。

「お節介な家庭訪問とかしてんだろな」

「してる。最近、頻度は減ったみたいだけど」

「お前、そんなに頻繁に安西と会ってんの?」

 唐突に聞かれてどきりとする。小学生の時と比べれば、少なくなってはいたが、どうだろう。週に一度は会っている。

「……うちの親が心配性で。小さい頃から知ってるだけに、帆淡のこと、いつも気にかけてるんだ」

「家、近いのか?」

「そんなに。帆淡とは、いつも公園で会ってる」

 公園、といえば通じるその場所は、中学校からは僕らの家を挟んで反対側にあったので、学校帰りの同級生に会うということはほとんどなかった。中学生は、市民の憩いの場たる健全な公園にはあまり興味が無い。

「公園? へえ。学校には来ないのに公園には行くのか」

「引きこもりってわけじゃないんだけど」 

「ふうん。変わってんのな」

 天野が僕の顔から視線を外したので、ほっとする。話は終わったと思ったので前を向いた直後、天野の発言が鼓膜を大きく震わせる。

「大人が嫌いな安西帆淡」

 思わず大袈裟に振り向いてしまう。僕はどんな顔をしていただろう。頬杖をついた天野の長い前髪が、さらりと揺れて流れる。

「俺、会ってみたいな」

 ぱかりと分かれた前髪の間から覗いた顔は笑みを浮かべて、好奇心に満ちた瞳が輝いた。


 公園のような開けた場所には「入口」とか「出口」とかいう概念はそもそもないのだろうけど、僕の家と帆淡の住む家から一番近い通り道が、僕らにとっての「入口」だ。

 入って石畳を少し歩くと、背の低い花壇がある。季節の花が植わっていて、特に今の時期は色とりどりに咲き誇っている。帆淡はもちろん、その花を摘み取ってしまうことはない。そこにいる時はただ美しさを眺めているだけだ。手に取る花は、ブランコの足元や、砂場の隅から調達してくる。

 その日帆淡は、花壇の近くのベンチに座っていた。横を向いている、と思ったらどうやら猫がいるようだ。帆淡は静かな生き物を好む。猫は公園に住みついて人慣れしているらしく、すぐ近くの人間の視線も意に介さずというふうに、ベンチの背の方を向いて丸まって、しっぽを揺らしていた。

「帆淡」

 ベンチは三人掛けだったけれど、僕は座らなかった。通学用のリュックの肩ひもを両手で握って見下ろすと、帆淡はゆっくりと顔を上げ、目を細めた。

「すごく、日当たりがいいの」

 なるほど、それで猫も、じっとそこに居るのだろう。左足だけ一歩下がると、帆淡の右目に西日が宿った。

 帆淡は小さな手で、猫の頭をつつく。規則的な尻尾の揺れが一瞬ためらう。何度もつつくうちに、尻尾はリズムを取り戻した。帆淡はつつくのをやめて、まじまじとその顔を覗き込む。

「帆淡、今日、僕の友達が、帆淡に会いたいって言った」

 覗き込まれた方はちょっと顔を背けて、ぴくぴくとひげを動かしている。

「会ってみたいって」

「叶方の、友達?」

「うん。クラスの」

「男の子?」

「うん」

 へー、というような顔をして、帆淡は、安らかに日向ぼっこをしていた猫の、ひげをくいっと引っ張った。猫には触られるのを極端に嫌がる場所がいくつかあって、そのひとつがひげなのだ。触れられた途端に全身の毛を逆立てるようにしたあと、猫は、四肢を思い切り伸ばしてつむじ風のように去ってしまった。

「わたしは、会いたくないな」

 猫がいた場所に手を置いて、横顔の帆淡が呟く。

「そう、だよね…………あ、今日、席替えをしたよ」

「席替え」

 僕は、努めて明るい声で席替えの説明をした。システムについては何度も帆淡に話したことがあったけれど、帆淡は今回も特に反応を示さない。自分のいない場所で、自分がいるべき場所を決められたって、しっくりこないというのはもっともだ。教卓の目の前に据えられることになった安西帆淡の席は、いつか帆淡が落ち着く場所、ではない。帆淡の生活とは無関係に、ただ、担任の熱っぽい視線に焦がされるだけのもの。

「だから、僕らは今同じ班なんだ」

「班」

「そう。同じグループ。帆淡が学校に来たら、僕らは時々、一緒に活動するんだ。小学校の時にもあったよね」

 そうでしたか、という感じに帆淡は顔を背ける。帆淡は自分の短かった小学生時代を、進んで反芻しようとはしない。小学校といえどやはり、学びの場、であったからだろうか。大嫌いな大人と関わらざるを得なかった記憶をよく思っていないのだろうか。

 ふと、僕は帆淡のことを、これっぽっちもわかってなんかいないのかもしれない、という思いに襲われる。

「叶方」

 蝶が花にとまるように、帆淡は呼ぶ。羽ばたく蝶のイメージが鱗粉を積もらせて、僕の視界を曖昧にしていく。

「どうしたの、帆淡」

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