ゴールデンウィークが明けた日の放課後。担任は大仰にため息を吐き出し、不満げな表情を隠さなかった。

 「わかったわ。しょうがない。それじゃあ今度は、私も一緒に行きます」

 担任が帆淡に会うことによって変化する何かを僕は想像しようとして、失敗した。


 そしてその週の金曜、僕と担任は連れ立って公園へ向かった。と言っても、僕は担任の後ろを5mの間隔を保ちながらのろのろとついて行っただけだった。担任はそんな僕を初めは咎めたが、生返事を続けていると、諦めた。

 帆淡はいつも通り白いワンピースを着て、花壇の前に座っていた。僕たちが近づいて行くと、帆淡は先に僕の方に気がついて、手を振った。左手には何かの紅い花がある。もう少し近づいてから、僕の前を歩く、生真面目な顔をした大人が自分の方へ向かって来ているのだと気づいたらしく、立ち上がって少し身構えた。

「安西帆淡さん」

 帆淡の目の前に立ちふさがると、担任は、授業で指名する時のように帆淡の名前を呼んだ。

「何ですか」

 帆淡は唇をきっと結んで自分の1.3倍ほどの上背がある大人に応じる。僕は急いで帆淡に駆け寄り、一緒に担任の方を向いた。

「どうして学校に来ないの、あなた。あなたはもう中学生。今しか学べないことが数え切れないほどあるの。今勉強しなくていつするの。今のうちに辛い思いをしておけばこそ、将来楽ができるというものよ」

 担任はそれからまた延々と、正しくても無駄なことを述べ続けた。

 帆淡はその言葉らの意味どころか、音すらも半分も耳に入れていないだろう。証拠に、目をきらきらさせて僕を見ている。前に、今度公園に来た時にブランコをする約束をしていたのをきっちり覚えているらしい。

「ちょっと、安西さん」

「すいません」

 僕に言葉を遮られ、担任はあからさまに嫌そうな顔をした。

「ちょっと遊んできてやって、いいですか。それからじゃないと、帆淡は落ち着いて話を聞けないと思います」

 ブランコの約束を果たしたからといって帆淡が大人の話に集中するわけではないのはわかっていたが、とにかくいったん担任と離れるために、提案する。担任はしぶしぶと頷き、僕らはブランコの方へ向かった。


「やなひと」

 帆淡は感想としてそれだけを呟き、いそいそとブランコに乗った。きちんと前を向いて座り、両手に鎖を握り締める。

「帆淡、あの人は嫌い?」

「うん。あの人は、すごく大人」

「ああ、そうだ。この前のこと」

 僕は帆淡の背中にまわり、ゆっくりと帆淡の身体を前へ押した。

「謝るよ。大人みたいなことをしたこと」

「大人みたいなことー?」

 忘れたのか、そのふりか、帆淡は言った。

 僕は都忘れの花を、帆淡を喜ばせるためではなく、帆淡の機嫌を良くするために、つまり賄賂として使用したことについて軽く説明をした。

「僕は大人じゃないからね」

「うん。叶方は大人じゃない」

 ふりこのように戻って来た帆淡の背を、またそっと押し出す。

「帆淡も大人じゃない」

「うん。わたしも大人じゃない」

 ブランコの錆び付いた鎖が悲鳴を上げる。

「僕たちは、子供だ」


 その日、担任は帆淡をベンチに座らせるとまた同じようなことを何度も繰り返し、少し満足げに去って行った。果たして担任は帆淡の精神状況のことをよくよく知っているのだろうか。

 そして当然ながら、担任の言葉は帆淡に何の感慨ももたらすことはなく、次の日にも教室にはひとつの空席があった。


 担任はよほど気分を害されたと見え、憤慨していた。そう思ったのは放課後また教壇に呼び出され「安西さんは?」と聞かれた時だ。素直にわかりませんと答えると、それ以上は追及してこない。担任はその日の放課後もあの公園へ向かったらしい。帆淡を学校へ誘導すべく。担任はそれを習慣にするようになって、僕は週に一回ぐらいついて行く時があった。

 だが、成長を信じない帆淡の耳に、担任の台詞の中の言葉は何一つとして届いていやしなかった。

 きっちり二週間で担任は何かを学んだらしい。毎日公園へ通い詰めるのをやめ、もっと根本のところから帆淡についての問題を正すことに決めたようだ。

 つまり担任は、公園でなく、家に通い詰めるようになったというわけなのである。


「ですからねえ、安西さん」

 その日、僕は自ら帆淡の家までの案内役を買って出た。帆淡は今日は一人で公園にいるはずだ。帆淡がいないのに帆淡の家に僕があがるのはなんだかおかしいような気もしたけれど、担任と帆淡の保護者のやりとりを見ておきたかった。

「病院へあの子を連れて行くべきだと、何度も」

 帆淡の保護者、安西晴子は申し訳なさそうな顔をするでもなく、かと言って迷惑だと言いたげに顔をしかめるでもなく、言った。

「いいんです。あの子は、あれで」

 担任の方はまたはっきりと顔をしかめた。

 安西晴子は基本的に、帆淡に無関心だ。心配を、していないとは言えないが、それは帆淡の放任ぶりからもわかる。

 長年連れ添った主人を亡くすまでは、二人で帆淡に学校の楽しさや、勉強がどんなに役に立つかを説明したりと、要するに今の担任と似たようなことをしてはいた。しかし二人共に第二の人生、子供という存在と親子の関係を築き、親子としての時間を過ごしたいという思いの方が優先したのだろう。帆淡に帆淡の望まないことを強く言うことはやめて、即席の親子関係を慎重に保ち続けていた。

 帆淡のお父さんが突然亡くなってしまってからは、晴子さんと帆淡の関係は親子関係とはもはや呼べないようなものになってしまった。責めるつもりはないけれど、結局のところ、晴子さんにとって帆淡は夫婦あっての「子供」だったのだろう。夫婦という関係がなくなった家の中で、血の繋がらない子供は世話を焼く対象ではなく、義務をもって保護する対象にすぎなくなってしまったらしい。帆淡は帆淡で新しくできた両親の存在を、ありがたがってはいたものの、愛すべき存在と捉えるには至っていなかったようだ。二人目のお父さんがいなくなってから晴子さんとそのことについて話をしたことは、一度もないと言っていた。

 ご主人の葬儀以来、死を待つように毎日を生きているという晴子さん。数年前に引き取った子供を気にかけてやれないのは、仕方のないことだと言うしかないのかもしれない。少なくとも帆淡に対して辛くあたったりしていることはないようだ。

 担任は必死に、年老いた未亡人を説得しようとした。

 そして何を言っても無駄だとわかると、しぶしぶと引き下がり帰って行った。どうせ、また明日にでも来るつもりなのだろうが。

「……彼女」

「僕と帆淡の担任です」

「担任。先生だとは、言っていたけれど」

晴子さんは皺の寄った自分の手に視線を落とし、ちょっと口を開きかけて閉じてから、また開いて、言った。

「強い人、なのねぇ」

 僕は返事をせずに、肩をいからせて歩き去る担任の後ろ姿を、未亡人と一緒に眺めていた。

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