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時が経ち、僕は小柄な中学生になった。同じく十二歳になった帆淡は、せいぜい七つぐらいにしか見えなかった。
帆淡が学校へ行くのをやめてからは、教師が週に何度か家まで教えに来るというスタイルを、小学生の間は取らされていた。帆淡は大人が家にまで来ることに初めのうちは完全な拒否反応を見せていたが、義務教育である以上家庭としても学校としてもこういう児童に手立てを講じないわけにはいかない。同居人がなんと言って聞かせたのかは知らないが、帆淡はその苦行をなんとか受け入れた。それでは学校に行くのと変わらないような気もするが、僕は、「担任」という制度が無くなったからなのではないかと推測している。来る教師が頻繁に変わる分深い話をする必要がないし、教師の側も教師の側で、必要だからやっているという態度を隠さない者も多く、帆淡のやる気や成績にはほとんど無関心だった。帆淡は義務的動機から自分に接触してくる大人の無害性を見抜いていたんじゃないかと、僕はそう思う。
帆淡は学ぶことの必要性を全く感じていなかったが、僕がゲームだと言って競う素振りを見せると、掛け算のやり方や新しい漢字をすいすい覚えた。知能レベルは成長が遅れているとも言い難い状況なのである。
帆淡は楽しげにゲームをして、飽きると、教師と距離をとり、僕を公園へ誘った。
しかしそんな生活も三月で終わった。
中学校の入学式を終えた僕は、帆淡と同じクラスになった。
当然のように帆淡は小学校の卒業式にも出なかったし、未だ中学校に足を踏み入れたことすらない。入学式の帰りに家に寄って、今年度からもクラスメートになったことは伝えたが、帆淡は首を傾げていた。考えれば帆淡には「進学」という事実自体を受け入れる理由がなかった。
いわゆる不登校児。初めの頃こそなんらかの噂も立っていたようだが、クラスメートはすぐにその状況を受け入れた。そんなものだろう。はっきり言って、そう珍しいことではなかったから。実際、空白の席が存在しているのは僕のクラスだけではないようだった。
僕らのクラスの担任は、三十代半ばの女性教師で、先の尖った赤ぶち眼鏡というあまりにも似合いすぎる装飾品を着けている。彼女のモットーは「みんな仲良く」であるらしい。クラスにはみ出し者を作らざるべく、毎日個々の生徒に働きかけている。
運の良いことに僕らのクラスは気のいいやつが多く、模範的なまとまりを持ったクラスに成った。それは奇妙なまとまりでもあった。一人もはみ出し者がいないという事態は、それはそれで常軌を逸しているのである。一人でいるのを好む者や、そうでなくても時折そういう気分を持つ者がいないはずはない。だがこの空間でそれは許されない。一度逸れた道はきっと、元のようには続いてくれない。誰もがそれを承知の上、「みんな仲良し」を遂行する義務感を持って、クラスの輪を、和を、保っている。
そんな環境であったので、ぽつりと存在する空席、つまり帆淡の席は、秩序を乱すものでしかなかった。クラスメートは特段気にするわけでもなかった。彼女が僕の幼馴染だと知って、深く詮索するでもなく、おせっかいもなかった。気のいいやつばかりのクラスだった。
だがこの担任は「気のいいやつ」と呼ぶには相応しくなかった。初めの一か月は様子見だったのか、ゴールデンウィーク目前の五月二日、しびれを切らしたように行動を開始した。
その日の放課後、HRが終わると僕は教壇のところへ呼び出された。僕は週一度のミーティング以外は出席自由の天文部に所属していたためそのまま帰るつもりだったのだが、背負っていたリュックを机に置いて教壇に近づいた。担任は、声をひそめて遠回しに話を切り出した。
「真山くん。あなた、安西さんと仲が良かったのよね」
安西、は今の帆淡の名字だ。情報は、小学校から全て伝わっているらしかった。 「良かった」という過去形の言い方に違和感を覚えつつも、僕は素直に「はい」と答えた。
「彼女、ずっと学校に来ていないでしょう。この長期休暇の間、安西さんの家に行ってくれないかしら。そしてできれば学校へ来るよう誘導して頂戴」
くれないかしらと言うわりに担任は僕の返事を待たず、家の場所はわかるか、親御さんとも面識があるのか、ということを確認してきた。はい、はい、と答えると担任は安心したように「それじゃあお願いね」と言って話を打ち切った。随分勝手だなと思ったけれどこれでも相当待った方なのだろう。一か月の間、手段を尽くして帆淡の周りのことを探っていたのではないかと想像すると、良い気分ではなかった。
それにしても誘導とは。帆淡は盲目ではない。むしろ物事の本質がよく見えている。僕ごときの言葉に今更進む方向を変えるとは思えない。
それでも僕は模範的なクラスの一員であり、帆淡がクラスにいることを願う人間であるので、休暇中、久しぶりに帆淡の家を訪ねた。
帆淡の住んでいる家は僕の家から歩いて十分ほどのところにある。大きな道路には面しておらず、静かな住宅街にある古風な家だ。錆びついた郵便受けの隣には「安西」という表札がかかっている。力強い筆の書体。帆淡を引き取った夫婦の名前だ。お父さんの方は一昨年亡くなってしまった。発作によるもので唐突に訪れた不幸であっただけに、お母さんである晴子さんの動揺は凄まじかった。お通夜で見た悲嘆に暮れる様子は胸が痛くなるほどで、そのため晴子さんは帆淡にかまう余裕もなかった。自分を引き取った世帯主の死に際し、涙一粒こぼさない帆淡の様子に気づきもしなかったのは、幸いだったかもしれない。
葬式の間中、帆淡と共にいた僕から見れば、帆淡はちゃんと悲しんでいた。「お父さん」という呼ぶことは果たしてなかったが、自分を受け入れ可愛がってくれた人間がいなくなってしまったという事実を、悲しんでいた。だけどきっと、帆淡は死を受け入れることができなかったのだろう。死はまさに「成長」のその先にあるものだから。
家に仏壇がやってきた時、何を言うでもなく、笑顔の遺影を見つめ続けていた帆淡の真っ白な頬を、僕は忘れることができない。
そんなわけで安西家の庭先には、世話をする主がいなくなったため放置され、茶色く乾いた盆栽が群れをなしている。晴子さんは世話好きの気性で、様々な植物を育ててもいたのだが、思い出の残った庭の手入れには身が入らないようだ。一年以上が経過した今でも。
盆栽と、転がった植木鉢の奥に、やわらかそうな白色としなやかそうな黒色が見えた。
帆淡だ。
今日も白い服をまとい、めったに切らない髪を垂らしている。
「帆淡」
ぐるりと家の周りをめぐり、柵越しに庭の方へ顔を出した。僕の呼びかけに対し、帆淡は驚いたように顔を上げる。
数年の小さな成長の間に、帆淡は美しく成った。それも、相当。黒髪はいよいよ艶を帯び、肌は白さを保ってきめ細かく、瞳は黒々と極めてぱっちりしたものに成った。
あどけなく純真無垢な表情は全くもって変わらないままだったけれど。
「叶方!」
バネ仕掛けの人形が飛び出すようにぱっと立ちあがる。帆淡はその左手に、何の花も持っていない。
今日が日曜日だからだ。週に一度、帆淡の保護者は何かの会合とかで家を空ける。長時間連絡が取れない状況に置かれるため、その日だけは、帆淡は外へは行かず家で留守番をしておくということに取り決めたらしい。
「今日は、叶方が来る日?」
小学生の頃、僕の生活サイクルはほとんど固定されていて、火曜日と金曜日が帆淡と会う日だった。しかし僕が習い事をやめ、帆淡の家に教師が来るようになると僕もなるべくその日に帆淡と会うようになった。それでもなんとなく染みついた習慣から火曜と金曜になると帆淡のことを思い出し、会う日に充てることが多い。帆淡の言う「叶方の来る日」は、そういうことだ。
「違うよ。今日は特別なんだ」
へえ、と帆淡はまばたきした。均等に並んだまつげが一瞬、白い肌に影を落とす。僕は柵越しに帆淡の手をとり、公園に寄って採って来た花を握らせた。
「はい、都忘れ」
「ありがとう」
帆淡はにっこりと笑って、白いスカートが水を含んだ地面につくのもかまわずしゃがみこんだ。
青紫色の小さな愛らしい花を、帆淡はちらりと見やったきり一言も感想を漏らさず、元の位置に視線を戻した。帆淡はプランターの隣にピンポン玉ぐらいの泥団子を三つ作っていた。
「帆淡」
「なあに」
帆淡はプランターの雑草をぶちりぶちりとやり始めた。
「学校、行きたくない?」
担任の尖った眼鏡を思い出しながら尋ねる。「誘導」の言葉が気に障ったために、あえて遠まわしな言い方をするのはやめた。
「行ってどうするの?」
小さな手で太い草をわしづかみ、引っ張っては傍に投げ捨てる。
「勉強したり、遊んだりするんだ」
「どんな?」
「生きていくのに必要なこと。それに、いろいろと遊びもある」
「わたし、学校行かなくても生きられる。ひとりで遊べる」
ぶちり、と大物を根っこの途中で千切り、右端の泥団子の上へ乗せた。
「友達ができるよ」
「叶方がいる」
少ない主張は、完全に帆淡に負けていた。
「そのうち、来たらいいよ」
「ふうん」
今度は隅の方の細いクローバーを、根こそぎ抜き取り、束にして真ん中の泥団子の上へ乗せ始めた。
しばらく帆淡のつむじを眺めていたが、それ以上いても何の期待もできそうになかったので、引き下がることにした。
「それじゃ、帆淡」
「もう帰るの?」
「うん。またね。今日は日曜だし。日曜の帆淡はあまり喋らないね」
「ふうううん」
気の無さそうな帆淡の返事にため息をつき、柵から身体を離した。服についた錆びを払い、くるりと踵を返す。
「……だって」
振り返ると、帆淡はしゃがみこんだまま呟いていた。
「今日の叶方、大人のにおいがするもん」
青くて小さな愛らしい花は、左端の泥団子の上に乗せられていた。
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