第一章【4】 予兆

 空を見上げれば、夕闇が辺りを包み始めている。通り沿いのポールに設置された時計は十八時をわずかに回ったところだ。

 日中とは違い、行き交う学生たちの姿もまばらな学内のメインストリートを真斗は進む。

 労働を終えた、心地よい疲労感。

 その余韻に浸りながら、ゆっくりとした足取りで正門を目指す。

 研究棟エリアの脇を通り過ぎ、大講堂と本校舎の間を抜けると、左手には学生専用の駐車場が広がっている。ところどころに停められた自動車の密度から、大半の学生は既に下校しているということを、真斗は推測する。

 真斗は人に自慢できるほどの特技らしい特技を持ってはいない。しかし、細かなことも無意識に観察し、その情報を元に物事を考え、今後の展開を推測する習慣が身に付いていた。これはおそらく、子供の頃の苦い経験がそうさせるようになったのだと真斗は思っている。

 十一年前――家族を引き裂いた交通事故。両親を失い、そして真斗は妹を――

 …………

 悼ましい記憶が真斗の脳裏に浮かびそうになった、その時。

「真斗くぅーん」

 不意に斜め後ろ、四時の方向にある本校舎の辺りからかけられる甘い声。しかしその声質はどちらかというと、野太い。

 真斗はこの声の持ち主に覚えがあった。びくっ、と自然に背筋が伸びるのを実感する。

 おそるおそる声の方を振り返ると……それ、は既に真斗に数メートルのところにまで迫っていた。 

 全体としてはピンクと白のツートンカラーのコーディネート。光沢を帯びたピンクのシャツに、裾口が大きく広がったラメ入りの白いラテンパンツ。

 大きく開いたシャツの胸元からは、逞しい大胸筋が覗いている。ヒールでより高さを増しているので正確にはわからないが、身長一八〇センチメートルはくだらないであろう、鍛え抜かれた体躯。

 坊主にカットされた強烈なほど鮮やかなピンクの頭髪。両耳を飾る金色のピアス。そしてシャープな輪郭を描く顎のライン。瞼にはやや色黒な肌に映える紫のアイシャドウが塗られ、カーブを描き天に向かって伸びる長いまつ毛と共に目元を演出する。鼻筋はシャドウで美しく際立ち、厚い唇はショッキングピンクのルージュでてかてかと輝いている。

 その巨体が、両腕の肘から下を外に開き、乙女のように振りながら走り寄ってくる。

 言いようのない恐怖に真斗は思わず走って逃げだしたい衝動に駆られるが、くねくねと器用に身をよじるその走りは、非合理なフォームには不自然なほど十分な速力を持っていた。

 おそらく、真斗が全力疾走をしたとしても、ものの数秒で追いつかれるだろう。

 ……なので、真斗にできる事はただただ立ち尽くすだけだ。

「真斗くん、今帰りなのぉ?」

 間もなくその人物は真斗の背後に被さるようにぴったりとくっつき、真斗の両肩を優しく揉みながら話しかけてくる。先ほどまであの速度で走っていたというのに、呼吸は少しも乱れていない。

「え……ええ、まあ」

 真斗は精一杯につくった愛想笑いで答える。

 背筋がぞわぞわする。

早乙女さおとめ先輩も今お帰りですか?」

「あら、やだもう。何度も言ってるでしょ。アタシのことは――『マサミ』でいいわよ」

 早乙女 雅美さおとめ まさよしは真斗の肩を揉みながら耳元で囁いた。

 ――早乙女 雅美。

 叡都大学 スポーツ科学学部の四年生。年齢不詳。名は『まさよし』と読むのが正しいのだが、本人は『マサミ』と自称している。そのファッションと、真斗へのスキンシップから見て取れる通り、いわゆるオネエだ。

 どういう接点があったのかは知らないが、怜奈とは気が置けない友人ということを知った時、真斗は驚きを隠せなかった。

 怜奈を通じて知り合って以来、柔和な性格と線の細い真斗は雅美にすこぶる気に入られている。どんな人間でも人から好かれるということは、嫌な気分にはならないものだが、このケースに於いては少々事情が複雑である。……がんばれ、真斗。

「……あ、いや。どうも慣れなくて。すみません。ええ」

 完全に困惑しつつも、なんとか反笑いで答える真斗。

「もう、照れ屋さんなんだから」

 雅美は大きな人差し指ですっ、と真斗の背筋をなぞる。

 慣れない刺激にびくっ、と真斗は筋肉を硬直させ、不覚にも反応してしまう。

「でも……そういうところ、可愛くてステキよ」

 雅美はそんな真斗をうっとりと見つめた。

「アタシも今までいろんな男を見てきたけど、真斗くんほど優しくて思いやりがあって、周りへの気遣いも欠かさない男は初めてだわ。しかもルックスもキュート」

「は……はぁ。どうも」

 意識が朦朧としてきたのを、真斗は感じる。

 しかし雅美はそんなことには気づかず、しばし真斗への賛美の言葉を紡ぐ。勿論、独特なスキンシップとセットで。

 …………

 数分の後――真斗にとっては数時間に感じられたが――ようやく雅美は真斗の身体から離れた。雅美から解放され、一時的に停止していた真斗の思考と意識が徐々に回復の兆しをみせはじめる。

「……あ、そうそう。ところで怜奈みてない?」

 真斗とのひとときに満足したのか、雅美は急に話題を変えてきた。

「……え、ああ。二時間くらい前に図書館にきましたよ。買い物に行くとかですぐ帰っちゃいましたけど」

 真斗が答える。

「あら。そう」

 左手を口元にあてながら、少し思案顔になる雅美。

「じゃあ……今日は行かないのかしら」

 雅美が少し上目使いに呟く。

「……?」

 何の事だろう? 真斗は少し不思議に思う。

 雅美はしばし何か考えていたようだったが、真斗に向き直り――

「まあ、いいわ。ありがと。それじゃまたね。真斗くん」

 そう言いながら真斗に投げキッスを送ると、本校舎の中へと戻っていった。

 …………

 嵐が過ぎ去った後、街に独り自分だけが取り残されたような虚無感。

「ふぅ……」

 なんかどっと疲れを感じてきた。夕食の買い物でもして帰ろう。一息つきそう思うと、真斗はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出す。

「あれ? 電池切れか?」

 ネットでスーパーの特売情報を調べようとしたが……手の中のスマートフォンの画面は真っ暗なまま、沈黙している。

 空はすっかり、夕闇に包まれていた。

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