第一章【3】 図書館

 研究棟の群れに隣接して建つそれは、研究棟のエリア全体とほぼ同じ敷地面積を持つ。

 ――叡都大学図書館。

 赤レンガ風の外壁は歴史を感じさせるものではなく、あくまでデザインとして採用されたもので、全体のレトロな色彩とは対照的に、建築様式は近代的だ。外光を効率よく取り入れられるよう、各所に配置された大きなガラス窓や、空気の流れまで緻密に計算された吹き抜けなど、極めて合理性に満ちた構造だった。

 一階部分には各社の新聞や様々な雑誌を取り揃えたサロン、数十台のパソコンを完備したコンピュータールーム、個室の自習スペースなどがあり、二階部分には文学作品はもとより、幅広い分野の専門書など、数十万冊の書籍を所蔵する本棚が整然と立ち並ぶ。

 その二階――

 数台のパソコンが立ち並ぶ木製のカウンターの、その向こうに真斗の姿があった。

 キャスター付きのラックに、背表紙に張られたラベルを確認しながら、てきぱきと書物を並べていく。

 真斗は入学直後から、ここでアルバイトをしている。学生課の掲示板に張り出されていた募集を見つけたのがきっかけだった。主な仕事内容は、学生や講師への本の貸出、返却の対応。返却された本を元の棚に戻す陳列作業、図書館が新たに購入した本を管理データベースに登録する作業などだ。講義と講義の間の空き時間など、短い時間での勤務も可能なので時間的に融通が利き、それでいて時給も悪くない。学生寮で一人暮らしの真斗にとっては、欠かすことのできない貴重な収入源となっていた。

 …………

「返却お願いします」

 カウンターに背を向け、作業に没頭していた真斗の背中にかけられる声。

 声とほぼ同時に、カウンターに数冊の書物が置かれた音が聞こえる。

「あっ、怜奈れいな先輩」

 振り返り、真斗は自然と自分の顔が緩むのを感じる。

「お疲れ様。真斗くん」

 神崎 怜奈かんざき れいなはカウンター越しに、真斗へにっこりとほほ笑み返す。

 艶やかなキューティクルが美しいロングの黒髪。整った顔立ちは美人といって差し支えなく、上品な薄化粧からは清廉そうな印象を受ける。

 首回りがゆったりとしたワインレッドのカットソーに、膝上ほどの丈のフレアースカート。チャコールグレーの生地にはホワイトとワインレッドの細いラインのチェックが入っており、派手すぎもせず、かといって地味すぎもしない上品な可愛さを演出している。

 上から羽織られた膝丈ほどの黒いカーディガンは、腰の位置で革を編みこんで作られたメッシュベルトが巻かれ、細いウエストに沿って美しいシルエットを描いていた。

「お疲れ様です。今日はもう帰りですか?」

 言いながら、真斗はカウンターに置かれた本を手にとり、裏表紙に張られたバーコードをスキャナーにかける。

「うん。ちょうどさっき講義が終わったところなの」

 スキャナーがピッ、という電子音を上げ、何事もなく返却処理が完了する。

「この後、響子ちゃんたちに買い物に誘われてて。これから合流するの」

 そう言えば如月がそんなことを言っていたな、と真斗は思い返し、例の件について如月がうっかり口を滑らせやしないよな、と改めて少し不安になる。

「……? どうかした?」

 怜奈が不思議そうな表情で真斗の顔色を窺う。……しまった、それほどまでに不安が顔に出ていたらしい。

「……あ、いや。なんでもないです。すみません。怜奈先輩」

 慌てて取り繕うように笑顔を作る真斗。

「もう。そんなに畏まらなくっていいのに。学年は違うけど、歳は同じなんだから」

 その様子を見て、怜奈はくすりと笑う。

 怜奈は情報社会学部の三年生だ。現役で叡都大学に合格しており、勿論、真斗のよく知る誰かのように留年もしていない。現在二十一歳。つまり真斗とは同い年だ。

 真斗は入学後に烈――こいつは本来、怜奈と同じ三年生であるべき――を通じて怜奈と知り合った。その後、学食や図書館で顔を合わせているうちに次第に親しくなり、美人で明るい性格の怜奈にいつしか真斗は恋心を抱くようになっていた。

 以前、怜奈は真斗が同い年であることがわかってから、そんなに先輩扱いしなくていいよ、と言ってくれたことがある。しかし、一度染みついた接し方を急に変えるというのも恥ずかしくて躊躇った真斗だ。自分の抱く淡い気持ちを伝えることなど、到底できるはずもなかった。

 ……と、ふいに電子音のメロディーが鳴る。

 それほど大きい音というわけではなかったが、しん、とした図書館内でははっきりと聞き取ることができた。

「あ、ごめんなさい」

 怜奈は手にしていたバッグの中へ細い手を差し入れ、急いで音の発信源を探し、そして取り出す。

 二つ折りタイプの携帯電話。いわゆる『ガラケー』だ。

 それを手にしたとき、既にメロディーは鳴りやんでいたが、怜奈は携帯を開き、まずはマナーモードに設定する。そして慣れた手つきで先ほどのメロディー音の元凶である新着メールに目を通す。

「響子ちゃんから。まだですか? だって」

 怜奈は軽く舌を出して、苦笑する。

「せっかちなやつだなあ」

 真斗も苦笑しながら感想を述べる。

「ところで怜奈先輩、まだスマホには変えないんですか?」

 今までにも何回かしたであろうその質問を真斗は口にする。

「うーん。なかなか決心がつかなくて。便利だとは思うんだけど、これはこれで結構使いやすいし」

「……です、よね」

 いつも通りの怜奈の答えに、少し残念そうに相槌を打つ。

 スマートフォン同士なら、無料通話アプリやメッセージアプリで格段に連絡が取りやすくなる。それでもう少し怜奈との距離を縮められるかもしれない……という真斗のささやかな野心。その成就はまだ先のことになりそうだ。

 …………

 二人がカウンター越しに話し込んでいると、怜奈の後ろに一人の男が現れた。

「あっ、どうぞ」

 怜奈が横に避けて場所を譲る。

 男は無言のままカウンターの正面へ進むと、二冊の分厚い本――何かの専門書のようだ――とその上に添えられた学生証カードを真斗に手渡す。

 学生証カードには――

 【 叡都大学大学院 経営情報科学研究科 宝條 茜ほうじょう あかね 】

 とプリントされている。

「こんにちは。宝條先輩」

 貸出処理の為にスキャンした学生証を返しながら真斗が言う。どうやら初対面ではないらしい。

「ああ」

 宝條と呼ばれたその男は短く答える。

 センターで分けられ、自然に流したクセのない金髪。細長い銀縁眼鏡の奥、やや切れ長の目からは、わずかに青みを帯びた瞳が覗く。抑揚を抑えた声色も相まってか、少し冷たい印象を受けるが、インテリ然とした凛々しい顔立ちだ。

 体格は均整がとれており、オフホワイトのテーラードジャケットとスラックスにビビッドブルーのワイシャツを合わせ、センス良く着こなしている。

「返却期限は二週間後の五月二十三日になります」

 言いながら、真斗は貸出処理を終えた専門書を差し出す。

 宝條は無言でわずかに頷くとそれを受け取り、カウンターを後にする。

「ねえ。今のって‘あの’宝條先輩よね?」

「……ええ、確か。そうだと思いますよ」

 怜奈の問いかけに真斗が答える。

 ――宝條コンツェルン。

 誰もが一度は耳にしたことがあるであろう世界屈指の巨大企業グループだ。

 その分野は金融、重工業、化学、医療、自動車製造、コンピューター産業、学術機関……果ては宇宙開発にまで及ぶという。

 先ほどの男――宝條 茜――は、その巨大企業グループの創設者にして現会長、宝條 源一郎ほうじょう げんいちろうの孫にあたる。それは即ち――茜がいずれ宝條コンツェルンのトップとなる御曹司であることを意味している。

「話には聞いていたけど……ホントにうちの大学にあんな凄い人がいたのね」

「ええ。僕らとは住んでる世界が違うような人なのに……。なんか不思議な感じですね」

 言いながら真斗は、怜奈が憧れの眼差しで宝條の背中を見てやいないかと気が気ではない。

 もしも世界屈指の御曹司が恋のライバルにでもなったら、例え天地がひっくり返っても真斗には勝ち目がないのは火を見るより明らかだ。少なくとも、真斗自身はそう認識している。

 悟られないように怜奈の表情を伺うが……そんな様子はないようだ。真斗は一人勝手に安心する。

「でもすごいわね。真斗くん。宝條先輩と知り合いだなんて」

「違いますよ、特に親しいわけじゃないですし。でも、よく図書館に本を借りに来るんで、軽く挨拶を交わすことはありますけどね」

 怜奈にすごいと言われ、なんだか真斗は無意味に舞い上がってしまう。

 …………

「さてっ、と」

 怜奈が気を取り直したように言う。

「そろそろ行くね。あんまり遅いとまた響子ちゃんからお叱りのメールがきちゃう」

 冗談交じりに言ってほほ笑むと、怜奈は真斗に別れを告げ、図書館を後にする。

 静かな図書館に響く、ショートブーツの小気味良い足音が遠ざかっていく。

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