調査ファイル10 菅物産の場合
僕は尼寺務。H税務署勤務の税務調査官だ。入所三年目を迎え、ようやく仕事にも慣れて来た。
僕はいつものように出勤して、机の上に書類を広げ、次の予定を確認しようとした。
「尼寺、ちょっといいか?」
上司である統括官が僕を呼ぶ。ドキッとする。いろいろな事が頭に浮かび、眩暈がして来そうだ。
「な、何でしょうか?」
僕は鼓動が統括官に聞こえるのではないかと恐れながら、近づいた。
「そんなに私が怖いのか、尼寺?」
「え、いや、そうではありません」
統括官がニヤリとして言うさまは、まさにあの憧れの女性である藤村蘭子さんがダブる。
高校の同級生にして、調査官として完膚なきまでに叩きのめされた人。でも、僕にこの仕事を続けようと決意させてくれた人でもある。今は、本当に自分が彼女の事を女性として好きなのだと実感している程だ。
「実は、異動の話が来ているんだが」
統括官の言葉がずっと遠くで聞こえているような気がした。
異動? 異動? 「いどう」と言っても、席が変わるのではない事くらいは理解している。
「ど、どこにですか?」
僕はそこがどこであろうと受けるつもりでいた。そして、それをきっかけに、藤村さんに告白するつもりだ。そんな劇的な事でもなければ、「優柔不断が息をしている」と揶揄された僕は、決断する事ができない。
「N税務署だよ」
「は?」
僕はこれはコントだろうかと思った。N税務署はここの隣の管轄の税務署だ。異動なんていう大袈裟な事ではない。
「そんなに驚くな、尼寺。これは正式な辞令ではない。N税務署の職員のご両親が亡くなってな。悪い事に、その職員は三人兄弟でN税務署勤務で、どうしても予定が捌き切れなくなってしまったんだ」
「という事は?」
僕は恐る恐る言ってみた。統括官はまたニヤリとして、
「緊急的な措置だ。明日から、N税務署に応援に行ってくれ。これは、あちらからの指名なんだよ」
「え? 自分は指名されたのですか?」
ビックリした。どういう事だろう?
「理由は聞いていない。まあ、他所で仕事をするのもいい経験だ。行ってくれるな?」
「はい」
喜び半分、悲しさ半分だ。遠くに行くのではなかった事は嬉しかったが、これでは藤村さんに告白するきっかけにはできそうもない。それは僕が情けないだけなのだが。
僕はその日は雑用に追われ、仕事はほとんどできなかった。行く予定だった法人の調査先を先輩に引き継ぎ、その日は終わった。
そして翌日、僕は隣の市にあるN税務署に行った。
「申し訳ないね、山寺君」
法人課税部門の統括官が出迎えてくれた。その人は、H税務署の統括官の同期らしい。
「H税務署から来ました、尼寺務です。よろしくお願いします」
「あまでら」を強調して言った。しかし無駄だった。
「みんな、紹介しよう。H税務署の敏腕調査官の山寺君だ」
とあっさり言われた。もうどっちでもいい。
「よろしくな、山寺君」
もうN税務署では、「山寺」でいい。観念した。
「早速で悪いのだが、調査に行って欲しいところがある」
「はい」
ここに長時間いて、「山寺」を連呼されるくらいなら、法人調査に行った方がマシだ。
「まず、今日はここに行ってくれたまえ」
「はい。自分一人でですか?」
僕は資料に目を通しながら尋ねた。
「もちろんだよ。君の良く知っている税理士の顧問先だからね」
「は?」
僕はその言葉にギクッとなり、もう一度資料を見た。
(実相寺沙織税理士事務所?)
驚愕のシナリオだ。こんなオチだとは思いもしなかった。藤村さんがいる事務所だ。確か、以前聞いた話では、職員は二人で、監査担当は藤村さんだけのはず。久しぶりに「現場で血が流れる」予感がして来た。よく考えてみたら、実相寺税理士事務所の住所は、N市だった。
「その事務所の監査担当の女の子は、以前H税務署管内の近藤税理士事務所にいたそうじゃないか。君も何度か調査で顔を合わせているだろう?」
もしかして、そのせいで僕は指名されたのか? 頭痛がして来た。
「軽くひねって上げてくれ、山寺君」
統括官は、ニコニコして言う。ああ、何て事だ。軽くひねられたら、僕はどうなってしまうのだろう? どうやら、僕が藤村さんに「軽くひねられた」情報は入っていないようだ。凄いプレッシャーを感じる。
「は、はい」
それでも、公務員の僕は、仕事をしなければならない。もしかすると、今日が僕の公務員生活最後の日になるかも、などと考えてしまった。
今まで何度も嫌な調査は経験して来たが、今日ほど嫌な調査はない。僕は思い足取りで、調査先の法人である「有限会社
そこは、食品卸を主な業務としている、流通会社だ。規模はそう大きくはない。大手の商社の一部を請け負って、問屋から小売店に運んでいる。メインは輸送になる。
「ごめん下さい。N税務署の者ですが」
とインターフォンに言った。
「どうぞ、お入り下さい」
「はい」
誰もドアを開けに来てくれる事なく、僕は自分でドアノブを開け、中に入った。
「書類はそこにありますから、どうぞご自由にご覧下さい」
事務員らしき中年の女性がツッケンドンに言った。あれ? 税理士事務所の人がいない。どういう事だ?
「あの、税理士事務所の方はいらっしゃらないのですか?」
僕は恐る恐る事務の女性に尋ねた。
「いませんよ。調査立会い報酬は、顧問料とは別ですって言われて、社長が立会いを断ったんですよ」
「え?」
驚いた。そんな法人なんて聞いた事がない。何を考えているのだろうか?
「ですから、お好きなように。私も、帳簿の事はわかりませんから、何も訊かないで下さいね」
「どういう事ですか?」
無責任な発言なので、僕はカチンと来て語気を強めて尋ねた。
「私だって、いきなり留守番頼まれたんですよ! 今日だけここの事務員なんです。そんな事言われたって、どうしようもないです!」
女性に逆ギレされてしまった。
一体この法人は、どうなっているのだろう? 僕は呆れ返ってしまった。それでも調査をしない訳にはいかない。応接セットのテーブルの上に乱雑に出された書類の山に近づき、ソファに腰を下ろす。
「はあ」
僕は溜息を吐き、調査を開始した。
そして帰署時間が近づく。
顧問税理士の立会いを拒むような法人だけあって、とにかく帳簿は出鱈目だった。藤村さんの懐かしい字が書き込まれた付箋紙がたくさん貼り付けられたままだ。実相寺税理士事務所の名入りの封筒がたくさん紛れ込んでいる。皆封を開けてあったので、中身を確認すると、それは、
「帳簿の内容には当事務所は一切の責任を持ちません」
という内容だった。つまり、匙を投げられた訳だ。指摘された事を全く改善・訂正する事がなかったのだろう。藤村さんは、調査立会いを拒否してくれてホッとしているかも知れない。
「今度は、社長がいらっしゃる時に来ます。また連絡しますので、お伝え下さい」
僕は帰り際にそう言ったが、女性は、
「私にそんな事言わないで下さい。ここで貴方が来るのを待って、貴方が帰るまでいてくれと頼まれただけなんですから」
「……」
経営者が経営者なら、留守番も留守番だ。僕は彼女には何も言わず、
「失礼します」
と会社を出た。
僕は帰署し、統括官に報告した。
「そうか。そんなに酷いところだったのか」
「はい。あれでは、税理士の先生が可哀相です。どうする事もできなかったでしょうから」
統括官は僕を見上げて、
「ご苦労だったね、山寺君。明日は、もう少しまともな法人だと思うよ」
「はい」
僕は統括官に頭を下げ、あてがわれた机で書類の整理と報告書の作成をした。
今までの調査で、一番疲れた。そう、藤村さんに初めて会ったあの調査よりも。
そして、また居酒屋にいる僕。目の前には藤村さん。いつも通り、眠っている。
彼女は、僕を信じ切っているのだろうか? 普通、若い女性が、男と二人きりで、ここまで眠り込むなんて考えられない。それとも、僕の事なんか何とも思っていないから、寝てしまうのかな?
「あれ?」
藤村さんが起きてくれた。僕はホッとしたが、先日の事を思い出し、
「今度はカラオケ行かないからね、藤村さん」
藤村さんはその言葉にバツが悪そうに微笑んだ。
「今日はお開きにしよう」
畳み掛けるように宣言する。すると藤村さんは、
「はい」
と素直に返事をしてくれた。良かった。何だか凄く可愛かった。もちろん、普段も可愛いけど。
タクシーを呼び、来るまで待つ。置いて行くと、また眠ってしまいそうなので、僕は雪山で遭難した心境で藤村さんに話しかけ続けた。
「タクシー来たよ、藤村さん」
「え、うん……」
藤村さんはフラフラしながら外へ出る。
「危なっかしいな」
僕は藤村さんが心配なので、一緒にタクシーに乗った。行く先は何とか告げられたが、とうとう藤村さんは寝入ってしまった。
「困ったなあ」
いくら呼びかけても、全然起きてくれない。やがてタクシーは藤村さんのアパートに着いた。
「ここか」
初めて来た。何故か、ドキドキして来る。
藤村さんをおんぶして、彼女の部屋を探す。一階で助かった。でも、鍵がない。
「ううーん」
その時、奇跡的に藤村さんが目を覚ました。
「藤村さん、鍵は?」
「ああ、開ける」
藤村さんはヒョイと僕の背中から飛び降りて、玄関の鍵を開けると、
「お休みなさい」
と言って、そのままそこに横になってしまった。
「藤村さん!」
近所の手前、あまり大きな声で呼びかけられない。
「全く……」
仕方なく、手探りで明かりのスイッチを押す。
「わあ」
一人暮らしの女の子の部屋。さすが藤村さんと言うくらい、奇麗に整頓されている。バストイレつき。家賃はいくらくらいだろう? 建物の耐用年数と減価償却費から換算して……。こんなところで悲しい職業病が出てしまう。
そんな事より、今は彼女をベッドに寝かせないと。
ベッド? またドキドキして来た。今、目を覚まされたら、確実に僕は疑われそうだ。
「起きないでね、藤村さん」
僕は慎重に彼女を抱き起こして、所謂「お姫様抱っこ」で運ぶ。軽いな、彼女。何キロだろう?
おっと。セクハラか?
僕は妙な妄想をしないようにして、彼女をベッドに寝かせた。
「鍵は?」
玄関を見ると、そこに落ちていた。
「ふう」
ホッとしたのも束の間だ。
(ここの鍵、どうやって締めればいい?)
これは本当に困った。すると再び奇跡が起こる。
「ああ、ありがと、尼寺君。後は自分でするから」
突然起き上がった藤村さんに、僕は外に追い出された。
「ありがとね、尼寺君」
そう言っているが、彼女は間違いなく寝ぼけている。目が半分しか開いていない。
ガチャ。
無情に響くドアのロックの音。
もう僕にはなす術はない。仕方なく、
「お休み、藤村さん」
とだけ声をかけ、アパートを後にした。
そして僕は、藤村さんの事が気になって、一睡もできなかった。
でも翌日、
「昨日はごめん。今度は眠りませんので、懲りずに誘って下さい」
と藤村さんがメールをくれた。僕は、
「こちらこそ、懲りずにお誘い下さい」
と返した。
今度こそ。僕は決意した。そう、今度こそ、藤村さんに告白するぞ。
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