調査ファイル9 石動建設の場合
僕は尼寺務。H税務署の調査官だ。
最近、ようやく仕事にも慣れて来て、調査対象である法人に行っても、只間違いを指摘するだけではなく、フォローも入れる余裕が持てるようになった。そこまで上がれたのは、言うまでもなく、上司である統括官や、先輩の方々の指導と助言があったからだ。本当に感謝している。
でも、それ以上に感謝している人がいる。藤村蘭子さん。高校の同級生で、片思いをしていた人。その人に調査で出会わなければ、僕はずっと前にこの仕事を辞めていただろう。彼女には、トラウマになりそうな思いもさせられたけど、「この仕事を続けたい」と思わせてもくれた。
今、彼女は税理士事務所が変わってしまい、残念な事にH税務署の管轄の法人を担当していない。
あ。僕は何を期待しているのだろう? 藤村さんとは、あくまで飲み仲間。悪くすれば、「タクシー調達係」でしかないのに。
そんなある日、僕は提出された申告書をチェックしていて、ふと目を留めた。
「
その名前は、見覚えがあった。高校の同級生。そして、僕を苛めていた男。更に、藤村さんと付き合っていると噂だった男。結局、後で知った事だが、石動は藤村さんとは付き合っていなかったそうだ。
久しぶりに再会したあの板金屋の調査の時、別れたのかと思ったけど、付き合ってもいなかったと知ってホッとしたのを思い出した。
「住所も同じだ。間違いない。あいつのところだ」
申告書の別表二(同族会社の判定に関する明細書)を見る。「石動幸喜」。あいつの名前だ。更に資料を当たり、登記内容を確認する。石動は、取締役になっている。
「そうか」
僕は別に石動には何も怨みは引き摺っていない。
「げ」
驚いたことに、有限会社石動建設の顧問税理士は、近藤力先生だった。
「誰が担当しているんだろう?」
あのアニメ声の錦織さんだろうか? あまり会いたくないな。
ハッとする。僕はすでに、石動建設に調査に行くつもりでいた。
(何を考えているんだ、全く)
今の状態で行けば、まるで私怨を晴らしに行くようなものだ。
「どうした、尼寺?」
先輩が僕の様子を変に思ったのか、声をかけてくれた。
「あ、いえ、別に何でもありません」
「おお、それ、石動建設の申告書か?」
先輩は興味深そうな顔で覗き込む。
「はい。それが何か?」
僕は不思議に思って先輩を見上げた。
「俺が今調査中の法人がさ、石動建設に巨額な貸付金をしていてさ。どうも、所得隠しじゃないかと思うんだ」
「所得隠し、ですか?」
ギョッとした。石動がそんな事に巻き込まれているのか?
「その法人の決算は三月なんだ。 石動建設の決算は二月だから、その申告書には計上されていないけど、そんな妙な事が行われているのは、間違いない」
「そうですか」
僕はもう一度申告書を見た。
「尼寺、そこの調査に行くのなら、貸付金の事を調べてくれ。もしかすると、とんでもない脱税事件になるかも知れないからな」
「はい」
もう僕は後戻りできなくなってしまった。でも、石動、僕を覚えているだろうか?
そして僕は、統括官とも相談の上、石動建設の調査に行く事にした。
「私情は禁物だぞ、尼寺」
「はい」
統括官の指摘は当然だ。僕は石動が高校の同級生だという事を話した。違う人に交代させられるかと思ったが、
「その方がいい場合もある」
と統括官は僕に調査をするように言った。
早速、顧問税理士である近藤先生の事務所に連絡をする。
「お電話ありがとうございます、近藤税理士事務所です」
この前聞いた声の女の子が出た。確か藤村さんだ。妹さんだろうか? でも彼女に妹がいるなんて聞いた事ないな……。いや、僕は彼女の事を全部知っている訳じゃないし。
「私、H税務署法人課税部門の尼寺と申します」
「いつもお世話になっております」
女の子は澱みなく話す。僕は、
「こちらこそ、先生にはお世話になっております」
と返し、本題に入る。
「実は、近藤先生の顧問先である石動建設さんの税務調査にお伺いしたいのですが、担当の方はいらっしゃいますか?」
「担当は只今外出中ですので、折り返しお電話させます」
受け答えは完璧だ。やっぱり妹さんだろうか? また誘い水を向けてみる。
「ありがとうございます。私、尼寺と申しますが?」
「私、辻村と申します」
あ、何だ。辻村さんか。電話だと聞き間違えるな。
「よろしくお願いします」
僕は思わず苦笑いをして受話器を置いた。
(藤村さんの事ばかり考えているからだよ)
違う自分が
しばらく資料整理や報告書作成をしていると、近藤税理士事務所の担当者から連絡が入った。
「お電話代わりました、尼寺です」
何故か沈黙。そして、笑い声が聞こえる。どういう事だ?
「ああ、失礼しました。私、石動建設さんの担当をしております、東山と申します」
え? 何だったの、今の笑い声? それにしても、錦織さんではなくて、東山さんか。あと、植草さんで少年隊が結成できるな。
「石動建設さんの調査の件なのですが……」
僕は気を取り直して話を続けた。東山さんも錦織さんと同じで、すでに先方に確認済みらしく、日程は再来週の水木で決まった。
「では、失礼致します」
僕は受話器を置いた。それにしても、気になる。どうして彼女は笑っていたのだろう? まあ、いいか。僕は頭を切り替えようと、もう一度資料に目を通した。
そして、調査の日。僕は石動建設の事務所の前にいた。
(こんなに大きな会社だったのか。知らなかった)
三年前に土地を買い増しし、自社ビルを建てたようだ。この不景気に、随分と勢いがある。
それは決算書にも現れている。連続増収増益で、右肩上がり。受注内容を大きく変換したのが当たったという噂だ。僕は事務所のドアの前に立ち、ドアフォンを押した。
「おう、やっと来たな、尼寺」
いきなりドアが開き、高校の頃と少しも変わらない陰険そうな顔で、石動が出て来た。但し、口ひげを生やし、嫌らしさが増していたが。
「や、やあ」
まさか僕の事を覚えているとは思わなかったので、すっかり面食らってしまい、そんな挨拶しかできなかった。
「まあ、座ってくれ。いろいろ話したい事があるんだ」
妙にテンションが高い石動。僕はようやく自分を取り戻し、
「H税務署法人課税部門の尼寺です」
と身分証を提示した。何か間抜けだ。
「わかってるって。税理士さんからみんな聞いてるよ」
石動はそう言って、事務所の奥にあるソファに座っている女性を見た。あの人が東山さん?
「お世話になります、私、近藤税理士事務所の東山です」
東山さんは僕に近づいて来て、名刺を差し出した。錦織さんとは違い、アニメ声ではない。清楚な感じのするお嬢様タイプだ。長い髪、デザイン性の高い眼鏡。できる女性を印象付ける。藤村さんの「愛弟子」だろうか? 名刺を見ると、「東山美奈」と書かれている。
「ほらほら、サッサと座れよ」
「は、はい」
僕はハッと我に返り、ソファに腰を下ろす。向かいに東山さんと石動が座る。
「美奈ちゃんに聞いたよ。蘭子と付き合ってるんだって?」
「は?」
美奈ちゃん? 税理士事務所の担当者をちゃん付け? しかも、藤村さんを呼び捨て?
「高校の時と違って、随分と積極的になったなあ、お前」
事務所を見回すと、僕ら以外に誰もいない。社長はどうしたのだろう?
「あ、いや、藤村さんとは付き合っていないですよ」
「だって、毎週飲みに行ってるんだろ?」
高校の頃の石動を思い出してしまった。こいつはこんな風に僕を言葉で追い詰め、苛めていた。
「いえ、飲みには行ってますけど、付き合ってはいません」
「妙な事言うなあ。ねえ、美奈ちゃん?」
ここはキャバクラか? そう思いそうになった。キャバクラに行った事はないけど。石動は腕を東山さんの後ろに回していた。触れてはいないが、まるで肩を抱いているように見える。
「あの、今日はそういう話をしに来たのではないので、帳簿類を見せていただけますか?」
「わかったよ。相変わらず、融通が利かない奴だな、お前」
石動は東山さんを見て、
「美奈ちゃん、出してあげてよ」
「はい」
東山さんは、慣れているのか、嫌な顔もせずに立ち上がり、隅に置かれた段ボール箱を運んで来る。辛そうだ。
「ああ、僕が運びますよ」
「すみません」
僕は東山さんから段ボール箱を受け取った。
「明日も来るんだっけ?」
石動が唐突に訊く。
「はい。調査は二日間の予定ですから」
「それなんだけどさ、俺、用事があってさ。調査、今日だけにしてくれない?」
「え?」
今までたくさんの法人に調査に行ったが、調査日当日に予定変更を申し入れられた事はない。
「頼むよ。今度の女は、大本命でさ。明日、どうしても落としたいんだよ」
何だ? 好きな女と会いたいから、調査を今日だけにしろだと? 何を思い上がっているんだ、こいつは? 昔からそういう奴だったけど。よし、それならそれでいい。僕も作戦変更だ。
「わかりました。いいですよ」
「おお、やったあ! ありがとな、尼寺。やっぱ、持つべき者は友達だなあ」
僕は唖然とした。お前なんか、友達じゃないよ。心の中でそう呟いた。
そして僕は通常の三倍、とは行かなかったが、とにかく大急ぎで帳簿をチェックした。どうやら、石動は、税金対策で役員になっているだけで、仕事はしていないようだ。報酬も控え目なので、問題にするほどではない。
(でも……)
おかしい。こいつが、年収三百万円で、役員になるだろうか? そんな奴ではない。
「石動さん、今年度の出納帳を見せていただけますか?」
僕は賭けに出た。これで何も見つからなければ、この調査は明らかに失敗だ。
「待って下さい。申告期限が経過していない事業年度の帳簿は、お見せする必要はないはずです」
さすが、東山さん。それを知っていたか。ピンチだ。
「いいよ、美奈ちゃん。ここで頑張っても、来年また来られれば、バレるんだから」
「え?」
東山さんは石動の言葉に呆然としていた。それはそうだろう。義務のない事を調査官が言っているのを阻止しようとしたのに、それを遮ったのだから。
「さあ、見てくれ、尼寺。俺の会社の悪行を、全部見つけ出してくれ」
「専務、それはどういう事ですか?」
東山さんは訳がわからないらしく、酷く慌てていた。
「いいんだよ、美奈ちゃん。君の所には迷惑をかけないから」
石動の顔は、来た時と違い、とても清々しくなっていた。どういう事だろう? 僕も困惑した。
石動は調査の連絡を社長である父親に告げず、旅行を計画して、社員を皆出かけさせてしまったのだという。彼は父親の悪事を快く思わず、調査があると知った時、それを一切合財出してしまおうと思ったようだ。
昔の石動と全然違っていた。何があったのだろう?
「何も知らないでのうのうと生きて来たのを、この会社の役員になって知ったんだよ」
彼は自嘲気味に言った。
「俺はこんな汚い金で育てられていたのかと思うと、本当に腹が立った。親父が許せなかったんだ」
「……」
僕は何も言えなかった。
「尼寺、遠慮は要らない。全部曝け出しちまってくれ。親父に全うに生きる事を教えてやってくれ」
「わかった」
僕は証拠となる書類を預かると、事務所を出た。
「尼寺」
石動が追いかけて来て、ドアのところで声をかけた。
「あの頃の事、許してくれ。俺は本当にバカだった」
「いや、別に僕は何とも思っていないから」
僕は心の底からそう言った。石動は嬉しそうに微笑み、
「たまには同窓会にも顔出せよ」
「そうだね」
僕は会釈をして、歩き出す。
「蘭子とうまくやれよ!」
「だから、藤村さんはそういう関係じゃないって!」
蒸し返さないで欲しい。結構いい気分だったんだから。
僕が石動に託された書類は、驚愕の物だった。石動建設ばかりでなく、付近一帯の土建業界が吹き飛ぶのではないかという、とんでもない談合の証拠だったのだ。先輩が調べていた法人の、石動建設への貸付金は、その談合で生じた裏金だった。
石動の会社はどうなってしまうのだろう? 僕は後味が悪い思いをした。
「フーン。石動君ねえ」
いつもの居酒屋。そして、いつもの藤村さん。今日は豪華な事に、錦織さんと東山さんもいて、「三人官女」だ。
「キャハハ、やっぱりお二人は付き合ってるんですね?」
飲むと豹変するタイプ。東山さんの変貌振りには驚いた。
「そうだよ、美奈ちゃん。知らなかったのお?」
錦織さんも酔っ払っている。
「うるさい、二人共!」
藤村さんの一声で、二人は正座し、黙り込む。凄い。
「そうなんだあ。ひげ生やしてたのかあ」
藤村さんには、調査の内容は話せないので、石動の近況報告だけした。多分藤村さんは、東山さんから全貌を聞いているだろうけど。
「うん」
「何か言ってた、石動君?」
トロンとした目で藤村さんが尋ねる。僕はギクッとした。すると東山さんが陽気に笑い出し、
「はい、言ってましたよお。確かあ、『蘭子とうまくやれよ!』って言ってました」
何て事を! あれ? 藤村さん、寝てた。早い。
いくら呼びかけても起きない藤村さん。東山さんと錦織さんは、彼からのメールで帰って行った。また二人きりになってしまった。
「またか」
溜息が出る。タクシー呼んでもらって、行き先を告げて……。などと考えていたら、
「うん?」
珍しく、藤村さんが目を覚ました。
「良かった、今日は自分で帰れそうだね」
僕はホッとして言った。すると藤村さんは、
「ごめん、尼寺君。いつもタクシー呼んでもらって。それも、お金まで……」
彼女にそんな事を言われると、とても照れ臭い。
「仕方ないよ。藤村さん、寝たら起きないんだもん」
僕は藤村さんを宥めるつもりでそう言った。ところが、
「私が寝ている間に変な事してないわよね?」
と思わぬ反応が返って来た。
「えっ!?」
僕は仰天してしまった。藤村さんの目が、疑惑に満ちて行く。そんなあ。
「そ、そんな事する度胸、僕にある訳ないじゃないか……」
僕はやっとそれだけ言う事ができた。
「そんな事ができるくらいなら、とっくに告白してるよ……」
パニックも手伝ったのか、とんでもない事まで口にした。ハッとして彼女を見るが、聞こえなかったのか、何か呟いている。
「ラストオーダーです」
店員が来たので、僕は、
「お勘定」
と声をかけた。
「えっ? 今何か言った?」
藤村さんが話しかけた気がして振り向く。
「ううん、何でもない」
そう言うと、藤村さんは立ち上がった。
「カラオケでも行こうか、尼寺君」
「えっ? 僕、もうお金あまり持っていないよ」
ビクッとして身を退く。彼女はニッとして、
「大丈夫。お姉さんに任せなさい」
と胸を張った。確かに生まれ月では藤村さんの方がお姉さんかも知れないけど。
そして結局、二時間歌い捲った藤村さんは、がぶ飲みしたカクテルと疲れのせいで眠ってしまった。
「あーあ」
今日はタクシー係はいらなかったと思った僕が甘かった。
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