調査ファイル8 藤原鉄工所の場合

 僕は尼寺努。H税務署法人課税部門勤務。彼女なし、片思いの人あり。

 その片思いの人に、最近、毎週のように会っている。高校の時の憧れの人だった藤村蘭子さん。ちょっと前までは、税務調査官と税理士事務所担当者としてライバル関係だった。彼女は僕のことなんか、ライバルだなんて思っていないだろうけど。今は只の飲み仲間。いや、「タクシー調達係」と言った方が正確かな?

 藤村さんは、陽気なお酒なんだけど、必ず潰れるまで飲むので、始末が悪いのだ。でも、たまに連絡をとる事がある同級生に訊くと、藤村さんが酔い潰れるまで飲んだのを見た事がないそうだ。

「お前、藤村を何とかしようと思って、変な酒飲ませてるんじゃないだろうな?」

 妙な疑惑を持たれた。冗談じゃない。藤村さんは、全部自分で頼んで飲んでいるんだぞ。大体、酒がほとんど飲めない僕がそんな事できる訳がない。

「まあ、諦めろ。藤村は、お前なんかと付き合ったりしないからさ」

 それは大きなお世話だ。そんな事は考えた事がないし、無理だって事は自分が一番よくわかっている。彼女が引く手数多だったのは、高校の時から知っていた。只、どういう訳か、藤村さんは誰とも付き合っていなかったのも知っている。

「あいつ、男が嫌いなのかな?」

 同性愛者疑惑まで浮かんだほどだったのだ。いくら何でも話が飛躍し過ぎだけど。でも、あの久しぶりに再会した建築板金の法人では、

「彼氏と別れたばかり」

と言っていた。だから、彼女は「男が嫌い」という訳ではない。


 何でそんな事を気にしているんだろう? 僕は自分の浅はかさが悲しかった。


 そして今日もまた、ある法人の調査。鉄工所だ。創業六十年で、戦後間もない頃から営業している。社長は二代目で、先代以上の切れ者という噂だ。株式会社藤原鉄工所。高層ビルから、橋げた、野球場のバックネットまで請け負う。社長の藤原理一郎氏は、六十代とは思えないくらいの若々しさで、まだ三代目に後を継がせる気がないらしい。

 担当の税理士事務所に連絡する段になって、僕はギョッとした。

「こ、近藤税理士事務所?」

 そこは、藤村さんがいるところ。でも、前回は実相寺税理士事務所にいたから、彼女が担当という事はないだろうと思い、受話器を取った。

「近藤税理士事務所です」

 若い女の子が出た。藤村さんではない。

「私、H税務署法人課税部門の尼寺と申します」

「お世話になります」

 爽やかな声でそう言われる。僕はドギマギしてしまい、

「あ、あの、お世話になります」

と慌てて答えた。そして、

「近藤先生の顧問先であります、藤原鉄工所さんの税務調査の件でご連絡いたしました。担当の方はいらっしゃいますか?」

「担当の錦織にしきおりは只今外出中ですので、折り返しご連絡致します」

 その子の受け答えはとても素敵だった。僕は電話を切る時に名前を聞き出そうと思って誘導してみた。

「あの、私、法人課税部門の尼寺と言いますが?」

「私、藤村と申します」

「え?」

 僕はビックリした。藤村さん? でも、声が違う。もしかして、声色を使って僕をからかっているのか? でも、出た時からこの声だ。からかうなんて事ができる状況ではない。

「では、よろしくお願いします」

 僕は疑問を払拭できないまま、受話器を置いた。

 しばらくして、担当の錦織さんから電話が入った。男だと思っていたが、アニメ声の若い女の子だった。でも、近藤先生のところは教育が行き届いているようで、とても受け答えが鮮やかだ。こちらの提示通り、調査は再来週の水木で行う事になった。錦織さんはあらかじめ先方に連絡して予定を訊き、税務署にかけて来たのだ。実に効率のいい対処の仕方だ。素晴らしい。僕が新人の頃、そこまでできていたろうか? 軽く凹む。まあ、錦織さんが新人かどうかはわからないけど。税務署の先輩女子にも、アニメ声の人いるしなあ。


 そして調査当日。僕はちょっとだけドキドキしながら、藤原鉄工所に赴いた。

「H税務署法人課税部門の尼寺です」

 僕は事務所のドアを開いて顔を出した女性に身分証を提示した。

「お待ちしておりました。近藤税理士事務所の錦織です」

 若い女性だ。この人が錦織さん? まだ、学校に行ってそうな顔をしているけど。おっと、こんな考え方は女性蔑視だって、この前藤村さんに言われたっけ。それにしても、とても可愛い顔と声だな。

「社長の藤原です」

 ドアを閉じて振り返ると、錦織さんの隣に立っている男性が名刺を差し出して言った。この人が社長? 六十代のはずなのに、どう見てもそんな歳には見えない。肌のツヤが良くて、見ようによっては四十代だ。

「よろしくお願いします」

 僕はソファに案内され、腰を下ろした。反対側に錦織さんと藤原社長が並んで座る。

「まずは、お茶をどうぞ」

 社長の奥さんだろう、僕に来客用と一目でわかる茶碗でお茶を出してくれた。

「ありがとうございます」

 僕は会釈した。うん? 何か、錦織さんがジッと僕を見ている気がするが? 自意識過剰かな?

「ではまず、社長の身上調査をさせていただきますね」

「はい、どうぞ」

 藤原社長は、堂々としている。この法人は、社長が全部仕切っているようだ。奥さんも経理の深い部分はタッチしていない。どうやら今回は、「申告是認(不正や誤りが認められない事)」の雰囲気だ。人は見た目で全部わかる訳ではないが、藤原社長は悪い事をしているようなタイプには見えない。そして、事務所の中も奇麗に片づけられており、工場も整理整頓が行き届いている。何か出るとすれば、ケアレスミスのような類いだろうが、藤村さんがいた近藤税理士事務所では、それもあり得ない。


 午前中は身上調査と雑談で終わり、僕は昼食をとるために事務所を出た。

「尼寺さん」

 何故か錦織さんが追いかけて来た。

「何でしょうか?」

 昼食に出るだけだから、忘れ物を届けてくれた訳でもない。僕は不思議に思って、錦織さんを見た。

「お昼ご一緒していいですか?」

「え?」

 どうして? 何でそういう展開になるの? 

「え、いや、でも、税務署の調査官と、税理士事務所の担当者が二人で食事は、まずいですよ」

 僕は可愛い女の子の申し出は嬉しかったけど、そこは心を鬼にしてそう言った。

「でも藤村先輩とは、一緒に食事しましたよね?」

 ギク。どうしてそんな事を知ってるの? 嫌な事を思い出してしまった。

「やっぱり、藤村先輩と尼寺さんて、付き合っているんですね」

「付き合ってませんよ」

「そうですかあ?」

 どこをどう押せばそんな推理が成立するのか、と思うくらい、錦織さんの言動は飛躍している気がする。

「だったら、いいですよね、ご一緒して」

「は、はい」

 これ以上妙な事を言われるのと、税理士事務所の担当者と昼食をとったのを知られるのを秤にかけ、僕は「ご一緒」を選択したのだった。


 よく喋る。その一言に尽きる。

 錦織さんは、藤村さんの直属の部下だったそうだ。だから、会計監査の仕方や、税務署や顧問先とのやり取り、そして電話の応対に至るまで、藤村さん直伝なのだそうだ。そんな話から、藤村さんが酒癖が悪い事、酔うと必ず僕の悪口を言う事、更には自分の彼氏が最近会ってくれない事まで、まるでジェットコースター並みのスピードで捲くし立てられた。

 顔と声が可愛い子だなどというニヤついた出来事はどこかに吹っ飛んでしまうほど、錦織さんはパワフルだった。藤村さん二世。いや、ある意味彼女より凄いかも知れない。

「ありがとうございました」

 何故か僕は錦織さんにご馳走した形になっていた。これは問題かも知れないが、今更彼女に、

「割り勘で」

とは言いにくい。ああ、藤村さんの方が何倍もやり易いよ。


 そして、調査午後の部。売上関係からチェックする。請求書、契約書、見積書、納品書、領収証。それぞれを見比べながら、メモを取る。社長と奥さんはゆったりと構えていて、全く動じる様子がないが、錦織さんはせわしなく動き、僕の顔を見たり、僕のメモを覗き込んだり、自分のノートに何か書き込んだりしていた。

(何を見ているんだろう?)

 僕は錦織さんの行動が気になったが、自分の仕事に集中した。

 売上には、何も引っかかる事はなかった。錦織さんはそれでもノートに何か書き込んでいた。

 そして次は仕入と外注費のチェック。請求書、納品書、発注書、契約書。ちょっとだけ気になるのは、手書きの請求書が多い事だ。よく見ると、外注は個人事業主が多い。所謂いわゆる「一人親方」というスタイルだ。

「外注さんの出面帳でづらちょうは、藤原さんで管理しているのですか?」

 出面帳とは、仕事をした人達の動きを把握するための表だ。どこの現場に何人という具合に記して行く。

「はい。ごらんになりますか?」

 社長が立ち上がる。

「お願いします」

 社長が奥さんを見る。奥さんはサッと動き、大きな出面帳を持って来た。

「はい、こちらです」

「ありがとうございます」

 僕はそれを受け取り、吟味した。特に問題はなさそうだ。取越苦労かな? 手書きの請求書を怪しんでしまうのは、一種の職業病かも知れない。


 結局、そこまでで第一日目は終了した。僕は社長達に挨拶して事務所を出た。

(申告是認か)

 溜息が出る。別に「申告是認」は税務署の敗北という訳ではない。しかし、もし万が一、本当は何か不正があるのにそれに気づかずに見逃したとしたら、それはまさしく由々しき事態なのだ。

(今回はそれはないな)

 藤原社長と奥さんの人柄を見る限り、そんな心配は必要ないと思えた。

「尼寺さん」

 僕は本当に飛び上がりそうなくらい驚いた。

「失礼ですよ、それって。女の子が声をかけたのに、ビクッてするなんて」

 ゆっくりと振り返る。すると、錦織さんがニコニコして立っている。

「な、何かご用ですか?」

 僕はつい後ずさりして尋ねた。錦織さんは、

「残念でしたね。多分、何も出ないと思いますよ」

「はあ」

 そんな事をわざわざ言いに来たのか? 藤村さんより性格悪いな。

「もし何か出たら、私が今日のお礼にご馳走しちゃいますから」

「へ?」

 何て事言い出すんだ、この子は? そこまでバカにされると、怒る気にもならない。

「そうですか。精精せいぜい頑張ってみますよ」

「そうして下さい」

 錦織さんはそれだけ言うと、

「じゃあ」

と駆けて行ってしまった。駆け方もアニメみたいだと思うのは偏見だろうか? ほんの一瞬、

「夕食ご一緒しませんか?」

と言われるのを期待した僕がバカだった。

「ううう!」

 あんなガキに! そう思うと、急に闘志が湧いて来た。


 そして翌日。何も見つからないまま、午後の部だ。得意満面な錦織さんが僕を見ている。トラウマが甦る。あの時の藤村さんの顔が……。

「あれ?」

 僕はその時、思わぬ事に気づいた。給料だ。そうか、それを見ていなかったぞ! 僕は提出された申告書を鞄から取り出し、別表二(同族会社の判定に関する明細書)を見た。

「どうしたんですか?」

 不安になったのか、錦織さんが立ち上がって覗き込む。しかし、社長は悠然としたままだ。僕は顔を上げて社長を見た。

「奥さんが、みなし役員に該当しますね」

 みなし役員とは、以下のような条件を満たす者の事を言う。


① 経営に従事している

② 持株割合

イ.自分の属する株主グループが上位3位以内で50%超所有していること。

ロ.自分の属する株主グループが10%超保有していること。

ハ.自分(配偶者を含む)が5%超保有していること。


 つまりは、多くの中小法人の場合、株主であり経営者である社長の奥さんは「みなし役員」に該当してしまうのだ。もちろん全部がそうという事ではないが。

「奥さんの給与自体は、特に高額でもなく、社会通念上許される範囲だと思われますが、賞与に関しては、損金算入できません」

 損金に算入できないというのは、「経費で落とせない」という意味だ。 

「そ、そんな、あの……」

 錦織さんのあの得意顔が崩壊していた。彼女はパニック寸前で、目が泳いでしまっている。

 僕は土壇場で逆転勝利した。いや、調査は勝負ではないけど。社長と奥さんにみなし役員の説明をし、損金に算入された奥さんの賞与を損金不算入とした場合の計算をメモにし、手渡した。

「そうですか、わかりました」

 納得してくれたのか、それとも理解できていないのかわからないが、社長はまだ動じた様子がない。

 僕はその社長の態度が気になったが、別に問題にする事でもないので、また後日連絡する事を告げ、事務所を出た。

「尼寺さーん」

 また錦織さんが追いかけて来た。でも今回は泣きべそをかいている。

「昨日の事なんですけど」

「ああ、いいですよ、気にしてませんから」

 僕は彼女に奢ってもらうつもりはない。食事に行くのは、やぶさかではないけど。

「ち、違うんです。ホントに失礼な事を言ってごめんなさい」

「ああ」

 何だ、いい子じゃないか。僕は錦織さんに好感を持った。

「自分が自惚れていたのがよくわかりました」

「そうですか」

 僕は、錦織さんが泣き出すのだけは勘弁して欲しいと思っていたが、どうやらその心配はなさそうだ。

「勉強させていただきました。ありがとうございました!」

 彼女は深々と頭を下げ、ダッと駆け出した。頑張ってね。そんな思いで、彼女を見送る。


 そして。僕はとんでもない真実をその日の夜知る事になる。

「尼寺あ」

 藤村さん、いきなり絡み酒。いつもの居酒屋だ。今日は錦織さんも同席。少しホッとしている。

「な、何、藤村さん?」

 僕は目が座っている藤村さんを見て尋ねる。藤村さんは、

「あんた、ニッキにチョッカイ出さないでよね」

「は?」

 ニッキ? 少年隊のメンバーの愛称か。古いの知ってるな。

「嫌だなあ、先輩。私、尼寺さんを取ったりしませんてば」

 酔いが回っているのは、錦織さんも一緒らしい。

「何言ってんのよ、ニッキ! 尼寺君は、私の彼氏でも何でもないの! 只のお友達!」

 良かった。「お友達」か。召使と言われるかと思った。

「そうそう、尼寺さん」

 錦織さんが、妙に嬉しそうだ。

「どうしました?」

 僕は彼女を見た。すると錦織さんは、

「今日の調査、私は負けてませんから」

 いや、だから、調査は勝負じゃないから。え? どういう意味?

「みなし役員賞与、社長のお土産なんですよ」

「え?」

 僕は意味がわからず、藤村さんを見た。すると藤村さんは、ゴロンと焼酎のビンを転がして、

「奥さんの賞与が損金不算入になるのは、わかっていたって事よ。あの社長、いつも税務署にお土産を用意しているの」

「ええ?」

 という事は、あれは故意にそうしてあったのか? でも、何のために?

「それが税務署との良好関係を築くんですって。昔の人の考えそうな事よ」

 藤村さんは、藤原社長の行為があまり面白くないらしい。僕もそうだ。税務調査は、そういうものではないはずだ。「持ちつ、持たれつ」の考えは間違っている。

「そうなんだ」

 今日は悪酔いしたい気分だった。


 やがて、錦織さんは彼氏からのメールが入り、帰ってしまった。

「尼寺君」

「何?」

 二人きりになると、ビクビクしてしまう。

「ニッキは彼氏いるからね」

「わかってるよ」

 僕はもしかして、などと不届きな事を考える。藤村さん、ヤキモチ? まさかね。

「でも、私はいないから」

「え?」

 またそういう事を言って酔い潰れる藤村さん。ホントに「小悪魔」だよなあ。

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