調査ファイル7 きさらぎ食堂の場合

 僕は尼寺務。H税務署に勤務している。今日もまた、法人の調査の準備中である。

 その法人は「有限会社きさらぎ食堂」。一部の人達には、その途轍もなく強烈な盛りの多さで有名らしい。食事は倒れない程度に採れればいいと考えている僕には、全く無縁の場所だ。

 総勢三名で切り盛りしている、ごく小さな食堂である。社長の如月啓一氏、奥さんの純子さん、社長の母親の光恵さん。役員は社長のみで、奥さんとお母さんは従業員扱い。税法上、こういったスタイルの法人は、「過大賞与」などが指摘される事が多い。要するに、社会通念上あり得ない金額のボーナスを、従業員とは名ばかりの家族に支給し、法人税を少なくする方法だ。現在は、法人税率と所得税率の開きが狭まったため、危険を冒してまでするような裏技ではなくなって来ているのも事実だが、きさらぎ食堂は、そんな姑息な事はしていない。奥さんもお母さんも、同一業種と比べて、給与も賞与も極端に高い訳ではない。もちろん、多少は多く出しているが、それも許容範囲内だ。指摘して修正してもらうほどではない。

 では、何故きさらぎ食堂を調査する事になったのかと言うと、「密告」なのだ。匿名で、

「きさらぎ食堂は、脱税をしている」

という電話が、地元の新聞社にあったのだ。それを受けて、そこの記者が我が署に取材に来たのだ。

 そうなると、調査に行かざるを得ない。もし、その情報を無視して、その後で本当に脱税が発覚したら、H税務署がマスコミに吊るし上げを食う事になりかねないからだ。

「何も掴んでいないんですか?」

 新聞社の記者は、如何にも情けないという顔で言い放ったそうだ。

「税務署は警察とは違うんです」

 取材に対応した統括官もムッとしたらしい。

「でも、客のフリをして様子を調べたりしますよね、税務署さんも?」

 映画の「マルサの女」でも観たのだろうか? 確かにそういう調査はできるが、それで何かわかる事の方が珍しいのを、その記者には理解できないようだ。

「しっかり見届けさせていただきますからね」

 最後は、捨てゼリフのような言葉を吐き、記者は帰ったらしい。僕が応対したのではなくて良かった。


「頼んだぞ、尼寺」

 統括官に肩を叩かれ、別の意味でドキッとした僕は、溜息を吐きそうになるのを堪え、署を出た。

 きさらぎ食堂の三年分の申告書を調べてみたが、疑わしい箇所はない。社長の経歴もわかる範囲で調査したが、ごく普通の人だ。もちろん、奥さんやお母さんも変わった人ではない。

 僕は万全を期すために、反面調査もした。要するに、きさらぎ食堂の取引先を調べるのだ。製粉業者、精肉業者、卸売り専門のスーパー、割り箸などの消耗品を扱う業者も調べた。

 むしろ、その業者の方で不正が見つかり、その経営者達は、

「とんだとばっちりだ」

と思ったようだ。無論、僕はきさらぎ食堂の反面調査だとは言っていないので、彼等にはどうして僕が調査に入ったのかまではわからない。

「変だなあ」

 いくら探しても、きさらぎ食堂が脱税をしている気配を感じる事はできなかった。

 そして、とうとう本丸に乗り込むのだが、何となく結果が見えていて気が重い。何ヶ月か前の、悪夢のような連敗地獄が頭の中をぎる。

「こんにちは」

 僕は、「本日臨時休業」の札が下がっている引き戸を開いて挨拶した。

「今日は休みですよ」

 中のテーブルで頬杖を突いてテレビを見ていた社長が言った。五十代後半のはずだが、激務なのか、もっと老けて見える。僕は苦笑いして、

「H税務署法人課税部門の尼寺です」

と身分証を提示した。社長はビクッとして立ち上がり、

「あ、いや、失礼しました。どうぞ、おかけ下さい」

と椅子をテーブルから引き出し、腰に下げていたタオルで拭いた。

「ありがとうございます」

 僕は会釈して椅子に腰を下ろす。

「おーい、母ちゃん、税務署の方が見えたぞ」

「はーい」

 奥から声が答える。「母ちゃん」とは、どっちだろう? ふとそんな事を考えてしまった。

「税理士の先生は、立ち会われないのですよね?」

 一番不思議に思った事を切り出す。普通、納税者は不安だから、必ず税理士に立会いを依頼するものなのだ。何故か如月社長は、それを拒否したらしい。

「ええ。立会い報酬が一日三万円とか言われたので、冗談じゃないと思って、断ったんですよ」

 社長は苦笑いして答えた。なるほど、そういう事か。多くの税理士事務所が、一時間当たりいくらで請求する調査立会い報酬は、もっと高額になるケースもあるが、一日三万円は、小さな食堂には負担が大きい。自分達が三万円売り上げるのにどれほど汗を流しているのかを考えると、

「冗談ではない」

と思うのも当然だろう。

「いらっしゃいませ」

 お盆にお茶を淹れた茶碗を二つ載せ、奥さんが現れた。なるほど、「母ちゃん」は奥さんの事か。

「おっかあは?」

 社長がお盆から茶碗を持ち上げて、僕に差し出し、自分の分を口に運びながら尋ねる。

「ありがとうございます」

 僕は熱い茶碗を慌ててテーブルに置き、そっと指を耳たぶに当てた。

「お義母さんは、まだ起きられないよ」

 奥さんが答えた。社長は僕を見て、

「いやあ、母親が風邪ひきましてね。熱が下がらないんですよ」

「そうですか。ご心配でしょう」

 僕がそう言うと、

「鬼の霍乱て奴です。普段は殺しても死なないようなババアなんですよ」

 社長はいくら何でも言い過ぎだろうというような悪口を言ってのけた。

「聞こえるよ、あんた!」

 奥さんが奥に戻りながらたしなめる。どうやら嫁姑の関係も良好のようだ。

「聞こえたっていいさ」

 社長は全く悪びれる様子もない。いい親子関係なのかも知れない。

「取り敢えず、帳簿類を見せていただけますか」

 社長の身上調査は事前にすませてあるので、今日はいきなり帳簿に取り掛かる事にしていた。

「はいはい」

 社長がどっこいしょと立ち上がり、厨房に消える。それと入れ違いに奥から奥さんが戻って来た。

「すみません、お恥ずかしいところをお見せして」

「いえ」

 僕は只愛想笑いをするだけだ。むしろ微笑ましい光景に思えたのだから。

「はいよ、帳面ね」

 社長は厨房から、ラーメンのスープやら、カレーの染みやらがこびり付いた段ボール箱を持って来た。

「この中に一式入っているから、適当に探して下さい。ちょっと仕込みをしたいんで、いいですか?」

「はい」

 社長はまた厨房へと消えた。

「全く、せっかちが服着て歩いてるような人なんですよ」

 奥さんが溜息混じりに言う。そして、

「私がついていた方がいいですか?」

「ああ、いえ、お義母さんに付き添ってあげて下さい。わからない事があれば、声をかけますので」

「わかりました」

 奥さんは会釈して奥へ行った。こうして僕はガランとした店内に一人になり、帳簿類との格闘を開始した。

 さすがに日銭の商売だけあって、現金出納帳の量が半端ではない。一ヶ月だけで三十ページくらいある。これが三年分かと思うとゾッとする。もちろん、調査は明日もあるから、今日で全部見る必要はないのだが、ハイペースでいかないと、他の書類まで手が回らない。

 日々の売上も多いが、細々とした買い物も多く、スクラップブックにこれでもかとレシートや領収証が貼られている。見落としてしまいそうなくらい、ビッシリと貼り付けられているので、一枚一枚をチェックするのが容易ではない。

「む?」

 コンビニでキッチンタオルを買っている。それだけならいい。それに紛れて、タバコも買っていたのだ。すかさず付箋紙を貼る。

「あれ?」

 でもその直後、出納帳の方に、

「タバコ売上」

と同額で入金がある。お客に頼まれてタバコを買って来たのだろうか?

「ふう」

 思わず溜息が出てしまう。

(これは久しぶりに申告是認かな?)

 お客に頼まれたタバコまで帳面を通しているのだ。正直過ぎる。消費税課税業者ではないから、あまり関係はないのだが。これほど細かく現金管理をしているのだ。不正をしているとは思えない。僕はドンドンテンションが下がるのを感じた。

 一ヶ月分の現金を追うだけで、一時間くらいかかった。これでは一年分を見るのが精一杯だ。身上調査を事前にしておいて正解だった。

「おや?」

 何か不自然な気がする。何だろう? 具体的に何が、という訳ではないのだが、妙な気分なのだ。もう一度、スクラップブックを見る。でもわからない。何かが変だと思ったのだが、結局わからないまま、その日の調査は終了した。

「また明日来ます」

「お疲れ様でした」

 社長と奥さんに見送られ、僕はヘトヘトな身体を引き摺るようにして、きさらぎ食堂を出た。

「あれ、臨時休業じゃないの?」

 偶然店の前を通りかかった人に尋ねられた。僕はハッとして、

「あ、いえ、僕はお客じゃないので」

と咄嗟に業者のフリをした。するとその人は、

「何だ、そうなの。じゃあ、夜も休みかな」

と呟き、立ち去った。

「?」

 どういう意味だ? 「夜も休みかな?」って、何かおかしな日本語だ。僕はすぐさまその人を追いかけた。

「あの、ちょっといいですか?」

 僕は身分証を見せて、その人を呼び止めた。

「げ、税務署!」

 何故か驚愕された。聞いてみると、その人はフリーターで、収入があるにも関わらず、申告をしていないのだとか。

「それはまた後で、別の部署の者がお尋ねしますので」

 僕はその人の住所と名前だけ控えた。

「夜も休みかなって、どういう意味ですか?」

 僕の質問に、その人は緊張したようだ。別にそこまで恐れなくてもいいと思うんだけど。

「きさらぎ食堂は、一旦閉店してから、夜の部が始まるんですよ」

「夜の部?」

 まさか、水商売? 

「何ですか、それ?」

「大食い選手権です」

 大食い選手権? 何だ、それ?


 どうやらきさらぎ食堂は、通常業務の他に、深夜になると「大食い選手権」と銘打って、

「食べ切れなかったら、倍返し」

という、賭け事めいた事をしているらしい。それが何かの法に触れるかどうかはわからないが、一旦店を閉めてから、深夜に業務を再開するという情報は貴重だった。その分の売上は除外されている可能性が高い。あそこまで出納帳を事細かにつけられるのだから、二重帳簿を作っている可能性すらある。

 僕は署に戻ると統括官に報告し、深夜きさらぎ食堂に行ってみる事を話した。

「なるほど。それは怪しいな。すまんが、頼む。また明日、結果を報告してくれ」

「はい」

 僕は一人暮らしの気楽さもあり、きさらぎ食堂がもう一度開店する午後十一時まで、近くのファミレスで時間を潰す事にした。

「コーヒーのお替り、如何ですか?」

 最初は笑顔だったウエイトレスも、僕が夕食の後、何も頼まずに長時間居座っている事に気づくと、一切声をかけて来なくなった。現金なものだ。まあ、それが商売というものだろうけど。

 そして、遂に待ちに待った午後十一時。僕は精算をすませ、ファミレスを出た。


 きさらぎ食堂の近くまで来ると、人だかりができているのに気づいた。さっき店を出た時は、こんなに人間が集まるところには見えなかったのに、今はまるで「行列のできる名店」のようだ。最後尾を探しながら、店の様子を覗いてみる。

「さあ、次の挑戦者の人!」

 女性の声が響く。奥さんじゃない。誰だ? 不思議に思いながら、最後尾に並ぶ。

「ここはいつもこのくらい混んでるんですか?」

 僕は前に並んでいる学生風の男性に尋ねた。

「ええ、そうですよ。初めてなんですか?」

「はい」

 するとその学生は得意そうにニヤッとして、

「もっと混雑する時もありますよ。月末は、三倍返しなんです」

「三倍返し?」

 僕は鸚鵡返しに尋ねた。学生は頷き、

「そうです。負ければ三倍払う事になりますが、勝てば代金が只になって、三倍戻って来るんですから、ぼくら学生には、本当にありがたいシステムですよ」

「はあ」

 確かにそうかも知れない。僕は食が細い方だから、どんなにお金に困っても挑戦しようとは思わないが、「胃袋」に自信がある人なら、挑戦してみたくなるだろう。

「多分、ビックリすると思いますよ。本当に、馬の餌みたいな量が出て来ますから」

 学生はまだいろいろと話していたが、すでに僕は只頷くだけで、まともには聞いていなかった。


 しばらく経って、僕はその学生と共にきさらぎ食堂に入った。時間は十二時を回っていたので、同じ日に二度目の入店とはならなかったが、僕の姿を見つけた時の社長の仰天ぶりは、本当にカメラに収めたくなるほどだった。風邪で寝込んでいたはずの社長の母親も、元気そうに動いていた。彼女は僕を見ていないので、どうして自分の息子が僕を見て固まってしまったのか、全くわからなかったようだ。

 そして、きさらぎ食堂の夜の部が終了したのは、深夜二時だった。

 母親の光恵さんは、深夜までの営業があるため、日中仮眠をしているのだそうだ。だから、調査に訪れた時、顔を出さなかったのである。

 社長はすぐに観念した。言い訳もしなかった。潔いと言えば聞こえがいいが、さすがにジタバタして言い逃れができる状態とは思えなかったのだろう。表の営業で見せてもらった、あの几帳面な出納帳は、夜の部でも大活躍しており、詳細に売上げと支払いが記されていた。

「申し訳ありませんでした」

 社長は涙こそ流さなかったが、本当に反省していた。その顔は、ようやく楽になれる、という顔だった。

 昼間は奥さんが切り盛りし、夜は母親が補助する。そして、社長がその細かい性格を存分に生かし、出納帳を作る。これほどの見事な連携を、どうしてもっとうまく生かす方法を考えなかったのだろう? 脱税をする人達の共通点として、彼等は決して自分達のしている事が発覚するとは想像していないという事が挙げられよう。何件もそういう現場に立ち会って、それをしみじみ感じた。


 僕は翌日、統括官に報告をした。

「そうか。待った甲斐があって良かったな、尼寺」

「はい」

「今日はもう帰って休め。本当にご苦労だった」

 統括官の嬉しい一言で、僕は一気に睡魔に襲われた。そしてそのまま署を出て、寮に戻り、泥のように眠った。

 夜になり、そんな僕を起こしてくれたのは、あの着メロだった。

「寝てたの?」

 僕の片思いの人である藤村蘭子さんは、例によって居酒屋への召集をかけて来た。

「うん。昨日は深夜まで仕事だったんだ」

「そうなの」

 藤村さんは、「やめとく?」と言ってくれたが、僕は召集に応じ、居酒屋に出向いた。

「ホントにお疲れ、尼寺君」

 僕が到着した時は、テーブルに生中のジョッキが三つ空になって並んでいた。

「遅くなってごめん」

「どうして謝るのよ? 無理しなくていいのに」

 今日の藤村さんは妙に優しい。それが返って怖いけど。

「尼寺君にかんぱーい!」

「か、乾杯」

 僕は下戸だが、藤村さんと飲む時だけは、いつもよりは酒に強くなれる。

「何かさあ、尼寺君が遠くなって行くなあ」

「どうして?」

 僕はビールの苦みに顔をしかめて尋ねた。藤村さんは焼酎の空のボトルをゴロンと寝かせて、

「だって、カッコいいんだもん、尼寺君」

「は?」

 また意味が分からない事を口走っているよ、藤村さん。

「久しぶりに会った時は、あんなにヘナチョコだったのにさ」

 それは言わないで。僕のトラウマなんだから。

「でも、今の方が素敵。好きになってもいい?」

 どんどんエスカレートして行く藤村ワールド。彼女は翌朝、僕と話した記憶が全くないらしいのだ。だから、まともに聞いてはいけない。

「ダメ。僕はまだ仕事に生きるんだから」

 最近はどうにか、藤村さんの悪魔の囁きを受け流せるようになって来た。

「ひどーい。きらーい、尼寺君」

「えっ?」

 それでも、マイナス発言をされると狼狽えてしまう僕だった。

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