調査ファイル11 下山金型の場合

 僕は尼寺務。H税務署勤務の税務調査官だ。


 先日、隣のN税務署で人が足りなくなり、緊急的措置で僕が異動し、穴埋めをした。

「先方も喜んでいた。良くやってくれた、尼寺」

 統括官に褒められたのは、いつ以来だろう? 僕は嬉しくなってついニヤついた。しかし、統括官の次の言葉で、顔が引きつった。

「だからという訳ではないのだが、お前に正式な異動の辞令が下りた」

「え?」

 僕はポカンと口を開けたまま、しばらく言葉を発せられなかった。

「長野県のI税務署に異動だ。来月からな」

 来月。七月。思えば、今月は異動の時期だった。

「どうした、尼寺?」

 統括官はそんな僕の気持ちなど全く察してくれていない。

「国家公務員は、異動があるのは最初からわかっている事だろう? 何を今更」

「あ、いえ、異動が不服なのではありません」

 僕は慌てて言い訳した。

「何だ、彼女でもできたのか?」

 統括官があまりに意外そうな顔で訊いたので、僕は少しだけ傷ついた。

「か、彼女なんていませんよ」

「そうか」

 統括官は何故かニヤリとした。

「ならば身軽だな」

「はい」

 僕はかしこまって返事をした。

「異動にはまだ時間がある。それまで、ここで悔いを残さぬように仕事をしてくれ」

「わかりました」

 僕はお辞儀をして、統括官の席を離れ、自分の席に着いた。

(こんな形でいきなりその機会が訪れるなんて、運命かな?)

 僕は、高校時代の片思いの人である藤村蘭子さんに告白しようと思っていた。「異動」のような劇的な事でもなければ、僕のような性格の男は一生決断できない。もし、そんな機会が訪れたら、絶対に藤村さんに告白しよう。そう決めていたのだ。

(それを運命と思うなんて、思い上がりだ)

 相手がある事なんだぞ。調子に乗りかけている自分を、別の自分が咎める。


 そして、通常の業務に入る。異動の事で頭がいっぱいになって来て、気がつくと調査先の法人の前にいた。

「下山金型さんか」

 一時は、かなり隆盛を極めていた会社だが、代替わりして業績不振に陥ったらしい。二代目の若社長が、所謂「バカ社長」らしく、畑違いの業種に手を出したのがつまずきの始まりのようだ。

「どうしてウチになんか調査に来るんですか?」

 調査の連絡をした時、社長にそう言われた。その段階で、下山金型は税理士の顧問契約を解除しており、知らないでその税理士に電話してしまった僕は、下山金型の担当者だった人に嫌味を言われた。

 どうにも嫌な感じがする法人なのだ。先日、N税務署の手伝いで行った菅物産のような事になったら困る。それだけは勘弁して欲しいと思った。

 ところが、それ以上に僕を驚かす事が待ち受けていた。

「お待ちしてました」

 「本日臨時休業いたします」という手書きの紙が貼られた事務所のドアを勢い良く開いたのは、藤村さんの愛弟子を自称する錦織つばささんだった。

「あれ?」

 僕は思わずそう言ってしまった。錦織さんはケラケラ笑って、

「ウチが、調査立会いだけをお受けしたんですよ。で、尼寺さんが来るって聞いたので、私が来ました」

「はあ?」

 僕は唖然としてしまった。久しぶりのアニメ声の攻撃に頭が混乱しそうだ。

「H税務署法人課税部門の尼寺です」

 僕は身分証を提示し、錦織さんの後ろから現れた下山社長に挨拶した。

「社長の下山です」

 僕は下山社長に促され、ソファに座った。

「電話でもお話しましたが、ウチは本当に赤字企業ですよ。どうして調査なんかに来るのですか?」

 社長は不満をぶちまけて来た。僕は愛想笑いをして、

「今回は、反面調査と言いまして、こちらの調査が主ではないのです。他社に関連して、調べたい事がありまして」

 反面調査とは、要するに裏取りだ。別の法人の調査をして、ある取引の裏を取りたい時に行うものである。

「なるほど。では、ウチに何かあったという訳ではないのですね?」

「ええ、そうですね」

 僕はそう答えながら、不審に思った。何だろう? どうしてそんな事を訊くんだ? 大体、この調査が反面調査だってことは、取引先からの連絡で承知しているはず。もちろん、税務署側がその事実を明かす事はないから、知っているだろうという推測に過ぎないが。

「では、帳簿類を見させていただけますか?」

「はい」

 アニメ声が響く。頭がキンキンする。決して、錦織さんが嫌な人だとは思わないけど、やっぱりあの声は苦手になってしまった。以前は可愛いと思ったけど。

「どうぞ、尼寺さん」

 僕の脇に段ボール箱いっぱいの帳簿が置かれた。錦織さんは、ニコニコして下山社長の隣に座る。

「尼寺さんて、錦織さんとお知り合いなんですか?」

 下山社長がいきなり訊いて来た。すると錦織さんが、

「はい、以前別の会社の調査でお世話になった事があります。それと、私の先輩が、尼寺さんの彼女なんです」

「ほォ。そうなんですか」

 何も知らない下山社長は、すっかり信じてしまった。僕は慌てて、

「以前調査でお会いしたのは事実ですが、錦織さんの先輩は、私の彼女ではありません」

「あれ、そうなんですか?」

 錦織さんはもの凄く意外そうに言った。

「まあ、その辺の細かい事はいいですよ。いずれにしても、貴方と錦織さんはお知り合いなんですよね?」

 下山社長の顔に狡猾な色が浮かぶ。何だ?

「なら、調査したけど何も出なかった、という事で、本日はすませませんか?」

「!」

 そういう事か。やっぱりこの社長、何か隠しているな。臨時休業の状態も妙だと思ったけど。 

「社長、そんな事言ったらダメですよ。逆効果ですよ」

 錦織さんはニコニコしたままで下山社長をたしなめてくれた。しかし社長は、

「いやいや、そんな建前はいいですから、錦織さん。世の中、そうやって折り合いをつけてこそ、うまく行くものです」

と言い、僕を見る。嫌な目だ。人を垂らし込もうという心の底が見えるようだ。

「社長、失礼ですが、そんな事を言われるという事は、何か隠したい事があるのですか?」

 僕は怯まずに尋ねた。下山社長は、「バカ社長」ではないようだ。強かなのだ。

「まさか。勘繰り過ぎですよ、尼寺さん」

 彼は僕の名前もしっかり把握している。本当はかなりの切れ者だ。こいつは迂闊な事はできないぞ。

「そうですね。失礼しました」

 僕は、ここは一旦引き下がり、本調査の方をもう一度じっくりするべきと判断した。


 そして僕は、一通りの確認をすませ、昼前に事務所を出た。

「何だあ、ご馳走してもらおうと思ったのにィ」

 アニメ声でそんな事を言われると、余計頭痛がして来る。錦織さんが寂しそうな顔で見送ってくれた。何だか、悪い事をしたような気がしてしまうが、そもそも税務署の調査官が、法人の顧問先の税理士事務所の担当者に食事をご馳走するのは問題なのだ。別に何も悪い事はしていない。そう自分に言い聞かせて、僕は帰署した。


 僕の予想通り、下山金型の取引先は、下山金型に空の請求書を書かせて架空の経費を捻出し、その支払に当てたはずの金をプールしていた。下山金型の請求書のナンバーを控え、それを突き合わせて発覚する程度の拙い手口だった。

 多分、H税務署ではこの調査が最後だ。これからは異動のための準備が始まる。


 いつもはそんな事はないのに、今日は指が震える。

「明日、いつもの居酒屋で飲みませんか? 但し、錦織さんと東山さんは誘わないで下さい」

 僕は何度も本文を読み直し、藤村さんの携帯に送信した。

 できるのか、告白? もうドキドキして来た。


 そして当日。

 いつもの座敷で待っていると、藤村さんがやって来た。

「今晩は」

 藤村さんがいつにも増して奇麗に見える。胸が高鳴る。

「こ、今晩は」

 変な緊張感が僕をぎこちなくしている。何となくだが、藤村さんの目が不審そうだ。

「今日は絶対に眠らないから、よろしくね」

 藤村さんはニッコリして、僕の向かいに座る。僕は居ずまいを正して、

「うん。今日は本当に眠らないで欲しいんだ」

「そう?」

 そしていつものようにどうという事はない二人だけの飲み会が始まる。「二人だけ」と言うと、何か良い感じの響きだが、そんな事は微塵もない。

 気がつくと、僕は飲めないはずのビールを飲み干していた。藤村さんがポカンとした顔で僕を見ている。

「大丈夫、尼寺君?」

 藤村さんが心配そうに尋ねてくれた。

「だ、大丈夫。平気だから」

 そう言いながらも、顔が火照っているのが自分でもわかる。今日は僕が潰れる番だろうか? 


「あ」

 気がつくと、僕はいつの間にか寮に戻っていた。もう深夜の二時だ。

「うわあ」

 何がどうしたのか、全くわからない。どうしよう? 藤村さんに後で連絡しようか?

「あ」

 携帯にメールが来ている。藤村さんからだ。

「うわ」

 思わず叫んでしまった。

「今度はアルコール抜きでお話しましょう」

 藤村さん、怒ってるのかな? でも怒っているのなら、こういうメールはよこしてくれないよな。

 でも、僕は藤村さんに何を話したのだろう? その方が心配だった。

 いずれにしても、時間がないんだ。異動の前に告白する。それだけは何としても成し遂げよう。

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