調査ファイル5 杉並自動車板金塗装の場合

 僕は尼寺務。H税務署勤務の税務調査官だ。

 先日、ようやく満足の行く調査ができて、一歩前進と思ったのだが、二歩後退しそうだ。

 それは何故かというと……。


「ええ!? 統括官の上司だった人ですか?」

 僕は、つい大声を上げてしまっていた。

「そうだ。若いうちに税務署を辞めて、税理士に転進した人で、あちこちの税務調査官が泣かされている。とにかく、こちらの手の内を知り尽くしているからね」

 いつもは僕を励ましてくれる統括官が、とても弱気だ。

「調査、やめた方がいいですか?」

 僕はすっかり怖気づいていた。調査に入る予定の法人の担当税理士に連絡した後にそんな事を言われればテンションが下がってしまう。

「そんな事できる訳ないだろう! 馬鹿な事を言うな、尼寺!」

 統括官は僕の気の抜けた顔を見て怒鳴った。

「も、申し訳ありません!」

 慌てて頭を下げ、謝る。

「まあ、胸を借りるつもりでいくしかない。あまり気負わん事だ」

「は、はい」

 僕はそう言われて少しだけホッとした。

「だからと言って気を抜くなよ、尼寺。お前は個人で行くのではない。税務署を代表して行くのだという事を忘れるな」

「はい」

 また緊張して来た。嫌な汗が出る。


 そして調査当日。対象法人は有限会社杉並自動車板金塗装だ。板金の腕が良くて、ディーラーからも依頼があるらしい。社長は昔かたぎの職人、息子はよくできた二代目。絵に描いたような優良企業なのだが、ここに調査に来たのには理由があった。

 この法人と取引のある自動車販売の個人店に調査に入った同僚から、妙な話を聞いたのだ。

「おかしいんだよ。杉並板金てさ、領収証が二種類あるんだ」

 領収証が二種類ある。確かに臭う。でも、何もないかも知れない。

「それもさ、社名が印刷されている領収証は社長か専務のサインがあるんだけど、市販の領収証は決まって『杉並』の認印なんだ」

 その怪しい領収証の発行主は、社長の奥さんだった。詳細は不明だが、どうやら奥さんが入金分を流用しているらしいのだ。

 杉並板金には何かある。そう思って勢い込んで調査の連絡をしたのに……。

 何も出ないかも知れない。そんな風に思ってしまった。

「ごめん下さい。H税務署の者ですが」

 杉並板金は、自宅の前に工場と事務所がある。僕は工場の中に足を踏み入れ、そこにいたつなぎ姿の社長と専務に声をかけた。

「おう、いらっしゃい」

 気さくな社長がにこやかな顔で応じてくれる。

「こちらへどうぞ」

 専務の息子さんも、愛想がいい。何だか気が引けて来る。

「お待ちしてましたよ」

 事務所に通されると、ソファに座っていた好々爺といった感じのスーツを着た男性が立ち上がった。

奥から奥さんが出て来た。緊張しているのが見て取れる。あの販売店から、何か情報が入っているのだろうか?

「H税務署法人課税部門の尼寺です」

「安達税理士事務所の安達です」

 僕は身分証を提示し、安達税理士は名刺を差し出す。

「社長にこちらに来るように伝えて下さい」

 安達さんは名刺をテーブルの上に置きながら、奥さんに言った。

「は、はい」

 奥さんは妙にソワソワしながら、事務所から出て行く。

「上司から聞きました。安達先生は、ウチのご出身だそうで」

 僕は向かいのソファに座りながら切り出した。

「そうです。でも、もう何十年も前です。私も知った顔も少なくなりましたよ」

 温厚そうな人だ。「税理士となる資格を有する者」としては、税理士試験に合格し二年以上の実務経験を持つ者、二十三年以上税務署に勤務し指定研修を受けた国税従事者(要するに税務署OB)、公認会計士、弁護士があり、税理士名簿への登録を受けることによって「税理士」となり、税務を行う事ができる。安達さんは、税務署出身の税理士だ。先日出会った敵意剥き出しの税理士とは違う。あの人は試験に合格して税理士になった人らしいから、余計敵対意識が強いのかも知れない。税務署は納税者の敵ではないのだけど。その辺を勘違いしている人は、思った以上に多い。

 やがて杉並社長が事務所に入って来て、身上調査を開始する。中学を卒業してそのまま近所の板金業者に就職。仕事を一通り覚えた頃にそこの経営者が他界。子供達が事業を継がないため、杉並さんが引き継ぐ形になった。

 しかし、事業は順風満帆とは行かず、結局その業者は倒産してしまう。

 失意のどん底にあった杉並さんを救ったのが、当時その業者の一番の取引先だったディーラーだった。杉並さんはディーラーの支援を受けて「杉並板金」を開業した。

 初めは厳しい日々が続いたが、やがて仕事は軌道に乗り、稼げるようになったという。そして、息子さんが跡を継ぐ事になったので、安達先生の勧めもあり、法人にしたとの事。

 苦労人だ。僕には眩しいくらいの人だ。

「それでは、帳簿類は午後に見せていただきますので」

 僕はそう言って席を立ち、事務所を出た。

 いつになくやりにくい。社長と専務は本当にいい人で、全うな仕事をしているのがわかる。問題は奥さんだ。来た時から、一度も僕の顔を見てくれない。後ろめたい事があるとしか思えない。そして、その事を社長も専務も知らないようだ。安達先生はどうなのだろう? 気づいているのだろうか? それとも、僕が事務所を出た後、奥さんに尋ねただろうか?

 そんな事をいろいろと思い巡らせていると、たちまちお昼休みは終了した。

(もし、僕が安達先生の立場だったら、どうするかな?)

 ふとそんな事を考えてみた。


 そして事務所に戻る。安達先生達の顔を見渡すが、特に何もわからない。奥さんは相変わらず僕を見てくれない。何も話していないのだろうか?

「では、帳簿類を見せていただけますか?」

 僕のその言葉で、奥さんがビクッとしたのがわかった。安達先生が立ち上がり、奥さんに近づく。

「それと、それと、それ。あと、そっちの棚のものも」

 先生が的確に指示する。奥さんがあたふたしているのを見かねたようだ。

「ど、どうぞ」

 奥さんがテーブルに帳簿類を並べた。相変わらず僕の顔を見ない。嫌われてるのかなと思ってしまう。

「?」

 噂に聞いていた市販の領収証がない。どうしよう? 何て切り出せばいいのだろう? 取り敢えず、出されたもののチェックを始める。

 出納帳、元帳、請求書、納品書、たな卸し表と、帳簿は一見完璧だ。只一つ、市販の領収証を除いて。

「これだけですか?」

 僕はカマをかける作戦に出た。何かを知っている事を匂わせるのではなく、奥さんの動揺を誘うのだ。自分からボロを出させないと。

「こ、これだけです」

 奥さんは僕の目を見ないで答えた。安達先生が、

「何か、ご不審な点でも?」

と間に入るように尋ねて来る。奥さんの不自然な様子に気づいたのだろうか?

「いえ、別に」

 ここはとぼけよう。しかし、次の一手がない。僕は事務所の中を見回す。

「!」

 同僚から聞いた個人の販売店のカレンダーがある。僕はそれをジッと見た。安達先生は僕のその行動に意味があるとは思わなかったようで、何も聞いて来ない。しかし、奥さんは違っていた。落ち着きなくキョロキョロし、僕を見たり、カレンダーを見たりしている。

「このカレンダーなんですけど」

 僕は世間話でもするように言った。

「は、はい」

 奥さんの声がいつもより甲高いので、社長と安達先生がハッとして見る。

「このお店とは取引が多いようですね」

「は、はい」

 安達先生と社長が顔を見合わせる。

「尼寺さん、どういう事です? 何がお知りになりたいのですか?」

 安達先生が堪りかねたように切り出した。

「いえ、別に。カレンダーをくれるくらいだから、上得意なんだろうなと思っただけです」

 どうやら、安達先生は何も知らないようだ。奥さんは顔色が悪くなっている。

「領収証なんですけど」

 僕は奥さんを真っ直ぐに見て言った。奥さんの顔が更に硬直する。

「もう一種類ありますよね? それはどこにありますか?」

「いえ、あの、その……」

 奥さんは完全に目が泳いでしまっていた。社長は何の事か全くわかっていないようだが、安達先生は何かに気づいたようだ。

「領収証はこれだけですよね、奥さん?」

 あの温厚そうな安達先生が顔を紅潮させて僕を睨んで言った。

「いえ、あのその……」

 奥さんが口篭るので、今度は社長が、

「おい、どういう事だ? 何で答えない?」

と奥さんに詰め寄った。

「社長、落ち着いて。ここは私が」

 安達先生が慌てて社長を止める。社長はますますわからないという顔になる。

「尼寺さん、領収証がもう一種類あるというのは、どういう事です?」

「詳しい事はお教えできませんが、奥さんがご存知なんです」

 一斉に視線が奥さんに集まる。奥さんはパニック寸前だった。

「あ、あの……」

 

 それからまもなくして、奥さんは全部話してくれた。集金した金を全部会社にいれずに、パチンコに使ってしまった事を。売上を誤魔化していたのではないので、結局修正申告には至らなかったが、奥さんの年末調整をやり直してもらう事にはなりそうである。使ったお金を給料として加算し、所得税の計算をし直すのだ。

「お前なあ」

 苦労を共にして来た社長は、呆れた顔をしたが、怒ったりはしなかった。

「金が欲しいなら、俺に言え。使い込みなんてするなよ、みっともない」

「はい」

 奥さんは社長の優しい言葉に泣き出してしまった。僕もいたたまれなくなってしまった。

「では、私はこれで」

 僕はすぐに事務所を出た。何だか、僕のせいで奥さんが悪者になってしまったので、後味が悪かったからだ。

「尼寺さん」

 安達先生が追いかけて来た。

「は、はい」

 何か言われると思い、僕は緊張した。すると安達先生はにこやかな顔で、

「いい調査官になって下さいよ。期待してます」

「は、はい!」

 安達先生はそれだけ言うと、右手を挙げ、事務所に戻って行った。もしかすると、安達先生は、ずっと税務署にいたかったのかも知れない。そんな気がした。


 帰署し、統括官に報告をした。

「そうか。安達さん、元気だったか」

「はい。いい勉強になりました」

 統括官は僕を見上げて、

「あの人は、本当は国税査察官(所謂マルサ)になる話があったほどの人だ。でも、家族のために諦めたんだよ」

「え?」

 統括官の話に、僕はギョッとした。そんな凄い人だったのか。

 査察官は国税の花形だが、激務だ。家族を犠牲にする事も多いと聞く。安達さんは自分の地位より家族を選んだという事か。

「安達さんに期待されてるんだ、頑張らないとな、尼寺」

「はい」

 凄いプレッシャーかけないで下さい、統括官。僕は泣きそうだった。


「ふーん。凄いじゃない、尼寺君」

 向かいの席でほろ酔い加減の藤村さんが言う。僕は「念願」叶って、高校時代の片思いの女性である藤村蘭子さんとデート……。ならいいのだが、そういう色っぽい状況ではない。ここは居酒屋の座敷の一つだ。全然そんな雰囲気ではない。周りは仕事帰りの酔っ払い達だらけだ。

「飲んでる、尼寺君?」

「う、うん」

 藤村さんは、結構飲めるようだ。僕はビール一杯でクラクラしてしまうのだが。

「私も、税務署に行けば良かったなあ。今更遅いけど」

 藤村さんは、焼酎の水割りをグッと飲み干した。

「尼寺君はさ、査察目指すの?」

「僕は無理だよ」

 慌てて否定する。藤村さんはニヤーッとして、

「激務だもんね、査察って。家に帰れない事なんてザラらしいし」

「そうみたいだね」

 僕は溜息を吐いた。

「私と仕事、どっちを取るのよ!?」

 そんな事を言われる立場になってみたい。無理だけど。

「私は、大丈夫だよ」

「え?」

 何を突然? 完全に出来上がってる、藤村さん?

「私は、仕事優先OK。全然、気にならないよ……」

 意味不明の事を言い放ち、藤村さんは潰れてしまった。ビール五杯、焼酎の水割り七杯。凄いなあ。

 よろよろする藤村さんを何とかタクシーに乗せ、僕も寮に向かう。


『私は、仕事優先OK。全然、気にならないよ』


 どういう意味なんだろう? 私は貴方が家に帰って来なくても大丈夫? まさかね。私ならそんな激務でも大丈夫、だろうな。

 どうしても前向きに考えられない僕だった。

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