調査ファイル4 ある法人調査の場合

 僕は尼寺務。H税務署法人課税部門勤務の、新人税務調査官だ。仕事がどうもうまくいっていない。法人の調査に行くが、何も見つけられない事の方が多い。

 高校時代の同級生で、片思いの相手でもある藤村蘭子さんが、ある税理士事務所にいて、彼女と調査で顔を合わせてからますます調子が悪くなった。藤村さんとのやり取りは僕にとってトラウマなのだ。

「はあ」

 僕は自分の席で大きな溜息を吐いてしまった。

「どうした、尼寺? 元気がないな」

 上司である統括官が声をかけて来た。僕は作り笑いをして、

「いえ、そんな事はないです、統括官」

と答えた。しかし、統括官はニヤリとして、

「いや、お前、顔に覇気がない。仕事に迷いがあるな?」

「え、いや、そんな事は……」

「最近、調査がうまくいっていないからか?」

 統括官に隠し事は無理だ。素直に頷く。

「そうか。よし、次は私が同行しよう。調査はお前が進めろ」

「え?」

 それはそれで拷問に近い。後ろで統括官が見ていると思うと、余計調査がうまく行かなくなる気がする。


 そして結局、僕は統括官と一緒に法人の調査に出かけた。

「私も新人時代には苦労したものだ。しかし、それがやがて自分にとっての財産になる。今が踏ん張り時なんだぞ、尼寺」

「はい」

 路地を歩きながら、統括官がアドバイスをしてくれた。

 今日調査に入るのは八百屋だ。個人経営から起業し、株式会社になったところである。売上も消費税課税事業者になるほどで、調査対象の年度も消費税を支払っている。事業規模も比較的大きい方だ。

「いいか、尼寺。この法人は、法人とは言っても、自宅と店舗が一つになっている。そういう形態で一番注意すべきは、家事関連費だ」

「はい」

 家事関連費とは、家賃や電気代や電話代などの個人用と業務用が混在しているものの事だ。その区分けがしっかりできていない法人が多いので、調査の時、一番気を配るところなのだ。

「それも、ポイントを外してしまうと、何も見つけられない。そこをいかに見極められるかだ」

「はい」

 やっぱり統括官の話はとても勉強になる。

 やがて僕達は、対象法人の店の前に着いた。


 予想通り、調査は散々だった。担当税理士本人が立ち会っていたため、あいまいな指摘をすると、

「それは法律の条文、あるいは国税庁の通達のどこに書かれていますか、尼寺さん?」

と指摘を受ける。その都度、僕はオタオタしてしまい、統括官に救いを求めてしまった。

 家事関連費に関しても、事業と個人の割合は正当で付け入る隙がなく、建物は社長個人の所有で、きちんと賃貸契約を取り交わしており、家賃も法外に高いものではなく、標準的なものより若干低く設定されている。社長も家賃収入を不動産所得として、役員報酬と合わせて確定申告をしていた。完璧だ。

「はあ」

 統括官が隣にいるのに、うっかり溜息を吐いてしまった。

「そうへこむな、尼寺。指摘事項は悪くはない。相手が上手うわてだったんだよ」

 統括官の慰めの言葉が身に沁みる。

「はい、今度こそ、頑張ります」

 すると統括官は僕の前に立ち、

「その考え方はおかしいぞ、尼寺」

「は?」

 急に厳しい表情になった統括官に、僕はギクッとした。

「税務調査とは、対象法人のミスをあげつらうものではない。正しい納税知識を知ってもらうためのものだ。その考え方では、いつまで経っても一人前になれんぞ」

 統括官の言葉に、僕はハッとした。

 調査法人の顧問税理士は敵ではない。同じ税務の仲間だ。調査対象の納税者は犯罪者ではない。国の財政を支えてくれる存在だ。それを忘れかけていた。何とか間違いやミスを見つけようとしていて、肝心な事がおろそかになっていたのだ。

「申し訳ありません、統括官。以後、気をつけます」

「それでいい。あまりいろいろ一人で思い悩むな、尼寺。先輩の調査官も、私もいる。いつでも相談に乗るぞ」

「はい」

 僕は嬉しくなって大きく頷いた。統括官も微笑んで、

「私の主な仕事は人材の育成だ。お前たちのような若い世代が育たないと意味がない。一歩ずつでいい。確実に前進しよう」

「はい」

 あれほど落ち込んでいた僕は、晴れ晴れとした気持ちで署に戻った。


 そして数日後、僕は一人である法人の調査に出向いた。

 そこの税理士事務所の担当者は、まだ新人のようだ。歳も僕とそれほど変わらないと思う。

「よろしくお願いします」

 僕はその担当者に挨拶した。

「よ、よ、よろしくお願いします」

 かなり緊張しているようだ。目が落ち着きなく動いている。聞けば、一人で調査に立ち会うのは初めてらしい。

(僕もこんな時があったな)

 自分の初調査の時を思い出す。彼の初々しさが微笑ましくなった。

 一人での立会いは初めてでも、税理士事務所に勤務してからは数ヶ月が経過しているから、帳簿類は見事に整理されていたし、不自然なところはなかった。大したものだ。

「!」

 しかし、一つ気づいた事があった。これは税理士事務所の会計監査では気付きにくいかも知れない。

「領収書の番号が飛んでいますね、奥さん」

 僕は机から顔を上げて、経理担当の社長夫人を見た。税理士事務所の担当者は、途端にピクンとなり、奥さんを見た。

「え、あの、その、えーとですね……」

 あからさまに慌てふためく奥さんを見て、僕は残念ながら確信してしまった。

「切り取ったんですね、奥さん?」

 あくまで穏やかに指摘する。奥さんは消え入りそうな声で、

「はい……」

と答えた。税理士事務所の担当君は、すっかり舞い上がってしまい、オロオロするばかりだった。彼もまた、「寝耳に水」だったのだろう。

「それはどこにありますか?」

 僕は席を立ち、奥さんに近づいた。

「こ、ここにあります」

 奥さんは、お茶菓子が入っている大きな缶を差し出した。なるほど、こんなところに保管していたのか。

「確認させて下さい」

「はい」

 もう奥さんはすっかり小さくなってしまい、僕の顔を見ようとしない。担当君も口をポカンと開けたままで、何も言わない。

 領収書の「抜き」は、毎月日常業務的にこなす税理士事務所の会計監査の盲点を突いたものだった。巧みと言えば巧みだが、結局こうしてわかってしまうのだから、どれほど無意味な事か理解して欲しい。

 抜かれた領収書の合計金額は、占めて三十万円。人一人を雇えるくらいの額だった。

「これは同時に役員報酬と看做みなされます。社長の所得税の修正申告もしていただく事になりますよ」

 本当ならこの「抜き」の額は、役員報酬の中でも法人の経費にならない「役員賞与」に認定するべきだが、額も少額で、奥さんの態度も協力的だったので、そこまではしたくない。統括官への報告にはその旨も入れる事にした。

 要するに、隠した三十万円は消費税の課税漏れだけではなく、役員報酬としての経費も否認する場合があるという事だ。しかも、過少申告加算税や延滞税、場合によっては重加算税も追徴され、隠した金額など吹き飛んでしまう。脱税は割に合わないのだという事をしっかりと心に留めて欲しい。

 僕は奥さんに社長を呼んでもらい、税理士事務所の担当者も含めて、今回の件を説明した。社長は反抗するかと思ったが、

「見つけてもらってよかった。もし気づいてもらわなければ、味を占めて続けていたろうから」

と言ってくれたので、ホッとした。


 僕は署に戻り、統括官に報告した。

「そうか。そのフォローの仕方は良かった。尼寺、よくやった」

「ありがとうございます」

 僕は深々と頭を下げた。

「これからもその調子で仕事をしてくれ」

「はい」

 やっと一歩踏み出せた。そう思った。


 そして帰宅時。珍しく、携帯が鳴った。しかもこの着信音は……。

(まさか…)

 もう二度とかかってくる事がないと思っていた人からだ。

 藤村蘭子さん。僕の高校時代の片思いの女性にして、仕事上の最大のライバル。

 何だろう? 何の用だろう? 僕はドキドキして出た。

「もしもし」

「ああ、久しぶりね、尼寺君。元気そうね。ご活躍、聞いているわ」

 藤村さんの声は相変わらず耳に心地良い。聞き惚れてしまう。

「ありがとう、藤村さん。で、ご用件は?」

 僕はつい、そんな愛想のない応対をしてしまった。藤村さんのクスクス笑う声が聞こえる。

「何よ、畏まって。そんなに私の事が怖いの?」

 怖くないと言えば嘘になるが、そんな事は言えない。

「そ、そんな事はないよ。そう聞こえたのなら、謝ります」

「それよ、それ。その言い回しが、そういう印象を与えるのよ、尼寺君」

 確かにそうかも知れない。しかし、どうしても彼女と話すと、卑屈になる自分がいる。

「尼寺君も忙しいだろうから、手短に言うわね」

「うん」

 僕は思わず唾を飲み込んだ。

「今日、尼寺君が調査に行った法人の担当者、私の従弟いとこなの」

「ええ!?」

 僕は仰天した。何、それ?

「随分と、可愛がってくれたみたいね、彼を? この仕返しは必ずさせてもらうから、覚悟していてね」

「いや、その、別に、そんな……」

 情けないが、すっかり狼狽うろたえている。すると藤村さんが笑い出した。

「ごめん、ビックリした? 脅かすつもりはなかったんだけど、尼寺君があまりナイスリアクションだったから……」

 堪え切れないという感じで、藤村さんは笑っているようだ。

「彼にはいい勉強になったらしいわ。貴方に感謝してたわよ」

「そ、そう」

 ホッとした。藤村さんに「仕返し」なんて言われると、本当に寿命が縮みそうだ。

「今度飲みにでも行かない?」

「え?」

「何よ、私とは飲みに行けないの?」

 藤村さんは相変わらずだ。

「私、もう貴方の税務署の管轄の関与先を担当していないから、大丈夫よ。心配ないわ」

「あ、そう」

 それなら断る理由はなさそうだが、何故か怖い。

「また連絡するね」

 そして通話が切れた。

「はあ」

 まだ彼女に振り回されている僕。あれ? でも、飲みに行かないって言ったよな?

 期待していいのかな。

 いや、過度な期待は、その反動も大きい。

 僕は気長に藤村さんからの連絡を待つ事にした。

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