調査ファイル3 藤村蘭子の場合その2

 僕は尼寺務。税務署の職員。法人課税部門で、主に会社の税務調査をしている。しかし、まだまだ修行が足らず、税理士事務所や訪問先の法人にあしらわれている。そんな訳で、辛い日々が続いている。


 トラウマになりそうなくらい酷い目に遭った事を引き摺っていた僕は、「近藤こんどうちから税理士事務所」が担当している法人の調査を回避していた。そこは、僕の高校の時の同級生である藤村蘭子さんがいるからだ。彼女は優秀な税理士事務所の職員で、他の調査官も彼女の担当している法人では、ほとんど申告是認を余儀なくされていた。僕もその中の一人だ。

 申告是認とは、調査をしたが、何も誤りも不正もなかったという事である。言い方を変えれば、「税務署の敗北」とも言えるかも知れない。納税者側から見れば、それに越した事はないのだが、もしそれが調査をした職員の力量のせいで発覚しなかっただけだとすれば、やはり問題なのだ。大局的に見れば、真面目に納税している他の納税者や法人が割を食っているという事にもなるからだ。

 

 そんなある日、僕はある法人の調査に行く事になった。法人の事業は飲食業。最近メキメキと売上げを伸ばし、店舗を改装して事業を拡大しているラーメン店だ。社長はまだ三十代の若さで、従業員は五人。しかし、前年度の売上高は、税抜きで五千万円を超えている。一店舗としては結構大きな売上げだ。

 何かある、と思った訳ではない。飲食業の場合、よくあるのは、社長や奥さんの自家消費分の計上漏れだ。要するに、自分達が食べたラーメンやその他の料理の売上げを計上していないケースだ。お金のやり取りをしていないと、ついつい忘れてしまう事だが、これも売上げに計上するのが正しい税務処理なのだ。そこを調べて行けば、連敗記録も止められるのではないかと思った。もちろん、自分の成績ばかりを念頭に置いて調査をするつもりはなかったが。

「顧問税理士は実相寺沙織さんか。聞いた事ないな。新しく税理士になった人だろうか?」

 僕はその税理士の先生を調べてみた。まだ若い女性だ。昨年開業したばかりらしい。それなのに関与先が数十軒あるようだ。どうやら、親御さんが税理士で、暖簾分けという形で関与先を引き継いだらしい。僕はその先をもう少し調べれば良かったのだ。今となっては後の祭りなのだが。


 そして調査当日。僕はそのラーメン店を訪問した。定休日に来て欲しいという社長の願いを聞いたので、店は閉まっており、従業員は誰も来ていない。裏口から入るように言われていたので、店の横の狭い路地を進んだ。

「H税務署法人課税部門の尼寺と言います」

 僕はドアを開いて顔を出した女性に身分証を提示した。どうやら奥さんらしい。ラーメン店の人らしく、愛想がいい。

「お待ちしてました。どうぞ」

 僕は店内に足を踏み入れた。そこは厨房だった。店は休みだが、仕込みは休みではないらしく、社長らしき人が大きな鍋の前で何回もスープの味見をしていた。

「あんた、税務署の方が見えたわよ」

 奥さんが声をかける。すると社長は振り返り、

「もっと大きな会社を調べりゃいいだろう? 何でウチみたいな小さいとこを虐めるんだよ!?」

といきなり喧嘩腰で怒鳴って来た。このパターンは慣れて来たが、それでもいい気持ちはしない。

「社長、そういう事は言わない方がいいですよ」

 えっ? 今の女性の声は? 嫌な汗が出る。嫌な事を思い出す。

「尼寺君、久しぶりね。まだ調査官しているの?」

 皮肉タップリの事を言いながら、厨房に現れたのは、封印したい記憶の元凶である藤村蘭子さんだった。

「あ、あ、ど、ど……」

 呂律が回らない。藤村さんはクスッと笑って、

「どうして私がいるのかって訊きたいのね?」

「あ、ああ……」

 まだ口が回らない。藤村さんは腕組みをして、

「近藤先生のお嬢さんが税理士になられたのよ。それで、一時的に応援という形で、私がサポートしているの」

「……」

 悪夢だ。避けたつもりが、思い切り命中してしまった。

「何だ、藤村さんの知り合い? じゃあ、大丈夫だね」

 社長は手の平を返したようににこやかな顔で僕を見た。今の言葉、まるでデジャヴだ。

「私の知り合いだという事は関係ありませんよ、社長」

 藤村さんはニコッとして社長を見た。それからまた僕を見て、

「でも、何もでないのは確かでしょうね」

「……」

 侮辱とも取れる言葉だが、何も言い返せない。最初から圧倒されてしまっている。またダメなのか? そんな感覚が頭の中を占めて行く。

 甦りそうな悪夢を振り切り、僕は調査を開始した。

 厨房では手狭なので、店のテーブルを一つ借りて場所を作り、社長、奥さん、藤村さんは、一つ隣のテーブルに陣取った。周囲を見回すと、芸能人のサインやら、表彰状やらが並んでいる。神棚には客商売には欠かせない招き猫があった。

「では、社長さんにお尋ねしますね」

 僕がそう切り出すと、社長はニヤッとして、

「まあ、形式だけなんでしょ? もう調査は終わったようなものですよね、山寺さん」

「尼寺です」

 どうしてみんな、「山寺」と思うのだろう? 確かに珍しい苗字かも知れないけど。

 そして、社長の身上調査を開始する。家族構成、開業に至った経緯など。ここからいろいろ社長の人となりを見て行くのだが、第一印象が悪いので、何か隠しているように見えてしまう。さっきも、僕がサインや表彰状を眺めていた時、ソワソワしていたような気がするのだ。

 何かある。そう思った。しかし、その何かがわからない。藤村さんは相変わらず冷静な目で僕を見ている。

「何でも訊いてごらんなさい。全部私が答えてあげるから」

 そんな風に見えた。考え過ぎだろうか?

 今回の調査は、一日だけだ。開店している日には、社長も奥さんも立ち会えないというのだ。だから僕は、身上調査を早めに切り上げ、帳簿類を見せてもらった。奥さんは簿記ができるらしく、出納帳は完璧に近い。数字を間違った時にする「見え消し」もしてある。「見え消し」とは、訂正した数字がわかるように赤のボールペンで二本線を引き、その上に正しい数字を書き入れる方法だ。そのために、あらかじめ書き込む数字を行の三分の二くらいに押さえておく。それもきっちりやってある。奥さんの性格もあるのだろうが、この辺も藤村さんの指導が行き届いているのだろう。

 帳簿類は隙がない。奥さんと藤村さんの見事な連係プレーで、僕は何も見つけられなかった。と言うより、実際何もないのだろう。また失敗したか? また嫌な汗が出る。

「お昼はどうする、尼寺君?」

 藤村さんが尋ねて来た。

「え?」

 あの時の記憶が……。

「山寺さんも煮え切らない男ねえ。藤村さんが誘ってるのに、ぼんやりしちゃってさあ」

 奥さんが突拍子もない勘違い発言をした。僕はビックリして奥さんを見た。苗字を間違われた事を指摘できないくらい動揺している。

「そうよ、尼寺君。私に恥を掻かせないで」

 藤村さんまで悪乗りして来る。まずい、ますます飲まれて行く……。

「さ、行きましょうか」

 藤村さんは僕を強引に外に連れ出した。

「どこで食事する?」

 彼女はまるでデートにでも出かけたかのように嬉しそうに言う。そして、

「あ、いけない、携帯忘れた。ちょっと待っててね」

とウィンクまでして、戻った。僕は藤村さんに遊ばれている。そう思った。

 

 今回は、別に昔話もせず、妙なお願いもされず、ごく普通に会話をした。

「税務署には、若い女の子もいるんでしょ? どうなのよ、尼寺君」

「相手にしてもらえないよ」

「フーン、そうなんだ」

 藤村さんの笑顔はどこか怖い。何だろう? ふとそう思った。

「じゃ、私が立候補しちゃおうかな、尼寺君の彼女に」

「!」

 僕はギョッとして彼女を見た。藤村さんはからかう様子もなく、僕を真っ直ぐ見ている。

「何、私じゃ不満そうね?」

「いや、そんな事は……」

 藤村さんはこれほど乗りが軽い子ではなかった。性格が変わったのだろうか? それとも男と別れて、自棄やけになっているのか?

「じゃ、考えといて。私、待ってるから」

 藤村さんはニコッとして立ち上がった。

「戻ろうか」

「う、うん」

 どういう事だろう? 本当に僕に気があるのか? いやそんなはずはない。うーん、わからない、彼女の考えが。


 店に戻ると、

「どうだった?」

と奥さんが興味津々の顔で訊いて来た。藤村さんはニッコリして、

「振られちゃいました」

「まあ!」

 こいつ、何て自惚れた奴だ、という目で、奥さんが僕を睨む。

「ち、違いますよ」

 僕は慌てて否定したが、奥さんは取り合わない。

「こんな男、やめといた方がいいよ、藤村さん」

「そうですね」

 藤村さんは笑顔で応じた。ああ。僕は完全に悪役だ。

「山寺さん、女の子にはもうちょっと優しくした方がモテるぞ」

 社長が小声でアドバイスしてくれた。

「はあ……」

 苦笑いするしかなかった。

 僕は気を取り直して椅子に座り、帳簿に目を向けた。

(あれ?)

 店全体に何か違和感を覚えた。何だろう?

(気のせいか)

 僕は再び帳簿を見た。予想していた自家消費は、月末毎に社長と奥さんの分がしっかり現金で徴収されていた。ダメだ。藤村さんにそんな手抜かりはない。僕は絶望的になった。

「従業員さんのまかないはどうなっていますか?」

「給料に加算してあります。もちろん、その分は売上に計上してありますよ」

 藤村さんは勝ち誇ったように答えた。だよな。そんな事で見つかるほど、藤村さんは甘くない。

(もしかして、またやってしまったのかな?)

 何もない法人を調査した? そんな気がして来る。でも、あの午前中に見た社長のソワソワは何だったのだろう? もう一度僕が店内を見回しても、社長は慌てていない。

(さっきの違和感は?)

 そうだ。店に戻った時のあの感覚。僕は霊感なんてないと思うが、何かがおかしいと思ったのは事実だ。

「!」

 わかった。招き猫だ。神棚にあった招き猫がなくなっている。藤村さんをチラッと見ると、僕が何かに気づいたのを察知したらしく、ソワソワしている。

「招き猫がなくなっていますね」

 僕が誰にともなく言うと、奥さんがガタンと立ち上がった。

「奥さん、招き猫はどこにありますか?」

 奥さんの顔色が見る見るうちに悪くなる。社長も落ち着きなく貧乏揺すりをし出した。藤村さんは僕を見ようとしない。

「招き猫なんてありませんよ。何言ってるんですか、山寺さん」

 奥さんは見え透いた嘘を吐いた。藤村さんがハッとして奥さんを見る。なるほど、そういう事か。

 藤村さんが僕を食事に誘った理由わけ。僕を店から連れ出し、招き猫を隠させるため。その指示を出すために、「携帯忘れた」と嘘を吐いて店に戻ったのだ。そして、僕の集中力と観察力をそぐために「彼女に立候補」などと動揺を誘う事を言った。

 酷い。そこまでするか、普通? まあいい。これで同情も何もいらなくなった。

「そうですか。僕の見間違いだったんですかね?」

 僕は椅子を持ち、神棚に近づいた。社長が慌てて立ち塞がる。

「ダメです、社長! 妨害行為になりますよ」

 藤村さんが叫ぶ。社長はギクッとして僕に道を開けた。僕は椅子の上に立ち、神棚を見た。

「招き猫の大きさくらいに、ほこりが着いていないところがあります。ついさっきどけられたようです。何があったか、教えて下さい」

「そ、それは……」

 社長と奥さんはすっかり動揺してしまい、藤村さんを見た。

「招き猫がありました。ごらんになりますか?」

 藤村さんは観念したのか、そう言った。

「はい。是非」

 僕は椅子から降りて答えた。


 結局、招き猫の中から五百円硬貨が二十万円分出て来た。従業員の給料明細は二重に作られていて、額が操作されていたのだ。一日千円徴収していたが、税理士事務所には五百円徴収した形の明細を見せていた。

 この場合、売上と給料で利益は相殺されるので、法人税は発生しないが、消費税は計上漏れとなる。この店は、簡易課税制度を選択しているからだ。簡易課税制度とは、一定規模以下の中小事業者が選択により、売り上げにかかる消費税額を基礎として、仕入れにかかる消費税額を簡易的に計算できる仕組みのことだ。一定規模とは、法人の場合は前々事業年度における課税売上高が五千万円以下であることを指し、なおかつ簡易課税制度選択届出書を事前に提出している免税事業者を除く事業者に適用される。要するに売上漏れは即消費税計上漏れとなる。但し、この店の場合、前年度の課税売上が五千万円を超えているので、来年度からは本則課税に移行する。

 本則課税とは……。まあ、いいか。

 給料の源泉所得税は、従業員に渡した方で計算していたため、彼らには迷惑がかからずにすんだので、それだけは社長と奥さんはホッとしていた。しかし、この隠し方は悪質だ。延滞税だけでなく、重加算税の対象になる。故意による過少申告だからだ。

「重加算税に関しては、上司と相談してお返事いたします」

 僕は二人が修正に素直に応じたので、そこまで非情になるつもりはなかった。

 型どおりの挨拶をすませて、僕は店を出た。

 勝った? いや、そんな感動はない。むしろ、何とも後味が悪い。何だろう? あれほど調査で不正や誤りを見つけたいと思っていたのに。

「あーあ」

 ようやく辿り着いた山頂で、大して感動が味わえない登山者の心境だった。

「え?」

 その時、携帯が鳴った。見た事がない携帯の番号だ? 誰だろう?

「はい」

「尼寺君?」

 藤村さんだった。何だろう?

「ありがとう」

「え?」

 何故礼を言われるのかわからない。

「どういう事?」

 僕は頭の中が疑問だらけになり、尋ねた。

「あの社長、ウチを舐めていたのよ。若い女の税理士だから。全く聞く耳持たないと言うか。困っていたの」

「そう」

 僕は素っ気なく言った。

「以前は小銭なんて全部抜いていたらしいわ。でも、それだと現金の残高が不自然になるからと説得して、ようやく帳簿面だけはまともになったの。招き猫のお金も、さっき気づいたのよ」

「ふーん」

 僕の言い方は意地悪だったかも知れない。

「ねえ、尼寺君、その言い方、私に対する仕返し?」

 藤村さんが尋ねた。

「そう聞こえるのは、藤村さんに心当たりがあるからじゃないかな」

 僕は更に意地悪な言い方をした。

「そうね。貴方にはもっと酷い事したかもね」

「そうさ。僕を動揺させようとして、あんな嘘を吐いて」

 そうだ。まだ足りないくらいだ。そう思った。

「酷い。尼寺君、あれ、嘘だと思っていたの?」

 藤村さんの声が震える。え? まさか……?

「いや、その、あの……」

 僕は藤村さんが泣いてしまったと思い、慌てた。

「うっそー。その通りよ。貴方を動揺させようと思って嘘を吐いたわ。ごめんなさい」

「……」

 言葉がなかった。

「またどこかの会社で会いましょう。次は負けないわよ」

「ああ」

 気のない返事をして携帯を切った。まだまだダメだ。今回は調査は成功したが、藤村さんには負けた。そんな気がした。

 でもバカな僕は、本当は藤村さんは泣いていたのかも知れない、などと懲りずに妄想してしまった。

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