調査ファイル2 藤村蘭子の場合
僕はH税務署の職員、尼寺務。昨年までは個人課税部門に所属していたが、今年度からは法人課税部門に異動した。そして、世間一般ではあまり好かれる仕事ではない「税務調査」を主な仕事としている。先日調査に行ったところは、経営者が
今回僕が調査対象に選んだのは、ここ何年かで、この不景気にも関わらず、グングンと業績を伸ばしている建築板金業だ。特別何か不審な点があるとは思わなかったのだが、社長の役員報酬が月額にして七十万円で、奥さんの役員報酬も、月額換算で四十万円。少々過大役員報酬の臭いもしたので、起業から五年目というのもあり、数ある法人の中から選んでみた。
そして調査日当日。僕は申告書の束を鞄に詰め込み、署を出た。あまり「申告是認」ばかりが続くと、僕の能力が問われる事になる。そろそろ正念場だった。
申告是認とは、調査に入ったが、何も間違いや不正がなかったという事だ。本当はそれに越した事はないのだが、それは建前で、本音は「何も出ないのは調査官の実力の問題」と評価される。だから僕は焦っていたのかも知れない。
調査対象の法人に到着した。自宅の敷地の一角に別棟で事務所を建て、光熱費等もしっかり分けてあるようだ。小規模法人の多くは、個人の支出と法人としての支出を明確に線引きできていないところが多い。端的に言うと「財布を分けられていない」のだ。税務調査では、その辺をついていくのが基本である。特に建築板金などの場合、自宅の板金を行って、売上に計上しない事がある。これは法人税法ばかりでなく、消費税法にも抵触する問題なのだが、大抵の小規模法人はその辺がおろそかだ。今日はそこを念入りに調べようと思っていた。
社長の自宅の屋根や樋を見ると比較的新しいので、最近工事した可能性がある。これはいけるかも知れないと僕は内心思っていた。
普段は自宅にいると聞いていたので、自宅のドアフォンを押す。すると奥さんが顔を出し、続いて顧問税理士事務所の担当の人が顔を出した。
(あ……)
何とその子は、高校の同級生だった。しかも、僕が片思いしていた藤村蘭子さんだ。事務所の制服なのだろうか、紺のスーツが眩しい。スカートの下は「生足」で、白の靴下だ。思わず唾を飲み込みそうになる。
「ああ、やっぱり尼寺君ね。珍しい苗字だから、そうじゃないかと思ったんだ」
「あら、藤村さんのお知り合い?」
奥さんが驚いた顔で言う。するとその後ろから社長が現れ、
「なら安心だな。今日は何も出ないだろ?」
などと、冗談とも本気とも取れる事を言った。僕は
奥さんは藤村さんに僕の事を根掘り葉掘りと聞きまくり、いつまで経っても事務所に移動しようとしない。そこで、僕は思い切って切り出した。
「あの、そろそろ調査を開始したいのですが……」
「ああ、ごめんなさいね、私一人で盛り上がっちゃって」
奥さんは大声で笑いながら、サンダルを履くと、向かいにある事務所に歩き出した。僕はそれに続いた。藤村さんと社長が後ろから話しながら来る。
「税務署に同級生がいるのだから、もう大丈夫だね、藤村さん」
「それは関係ないですよ、社長」
藤村さんが困り顔で答え、僕を見た。僕は社長を見て、
「税務署も税理士事務所も、馴れ合いの組織ではありませんので、ご承知置き下さい」
すると社長はニヤニヤして、
「わかってるよ、山寺さん」
「尼寺です」
社長はそんな僕の肩をポンと叩き、先に事務所に入って行った。
「尼寺君」
藤村さんが小声で話しかけて来た。何だろう?
「今日さ、仕事終わってから会えない?」
「え?」
僕はドキッとした。好きだった人からの誘い。いや、そんな風に考えてはダメだ。
「話があるの」
藤村さんはニコッとして付け加えた。
「取り敢えず、仕事ね」
彼女は僕を追い越し、事務所に入って行った。
調査はまず社長個人の身上調査から入る。家族構成、起業の経緯などだ。でも、その大半を答えたのは、藤村さんだった。彼女はこの法人を担当して三年目で、家族構成から子供の進学先まで、あらゆる事を把握していた。年の暮れから始まる年末調整も引き受けているので、扶養控除等申告書で知ったのだろう。一般の会社員の人は、あの書類すら頭痛の種で、毎年経理担当の人にせっつかれている人も多いと聞く。
いけない。藤村さんに圧倒されている。僕は何とか主導権を握ろうといろいろ尋ねてみたが、
「では、午前中はこの辺で。午後は帳簿類を見させて頂きます」
僕はそう告げて、席を立った。
「尼寺君」
藤村さんが僕を追いかけて来た。
「何?」
「一緒に食事しない?」
「え?」
またドキッとする。断る理由はない、と言いたいところだが、担当税理士事務所の職員と二人きりでの食事はまずい。こちらも相手方も複数人なら問題はないのだが。
「大丈夫よ、税務署に言ったりしないから」
「いや、別にそんな事は……」
僕はそれを心配しているのではない。もう昔の事とは言え、かつて好きだった人と食事するのは緊張するのだ。
結局僕は藤村さんに押し切られ、近くのファミレスで一緒に食事する事になった。
「でも驚いた、尼寺君が税務署に勤めてるなんて。全然同窓会とか来ないから、どうしているのか知らなかったし」
「ああ」
僕は高校の同窓会は出たくない。当時苛められていたのだ。苛めていた奴の中に、藤村さんを好きな奴がいた。藤村さんもそいつの事が好きだったのだ。だから余計出る気になれなかった。
「あ、ごめんね、私ばかり喋っちゃって……。何か、懐かしくてさ」
藤村さんの笑顔は素敵だった。あの頃と少しも変わっていない。
「いや、僕、話すの得意じゃないし……」
「フーン。変わってないね、尼寺君は」
「そうかな」
彼女は昔話に花を咲かせていたが、どれも僕にとっては辛い思い出で、只愛想笑いをして聞いているだけで精一杯だった。
やがて昼休みの時間は終わりに近づき、僕達は席を立った。支払を済ませようとすると、
「ここは私が出すわ」
と藤村さんが伝票を僕の手から取り、レジに行ってしまった。そして後から僕の分を渡そうとすると、
「今日は尼寺君に会えた記念に、私が
「いや、でもさ……」
僕は慌てた。それはまずいからだ。
「大丈夫よ。二人だけの秘密にしておけば。ね?」
藤村さんの強引さとその「ね?」の後の笑顔に負け、僕は承諾した。
そして調査午後の部が始まる。出納帳、請求書、納品書、契約書とあらゆる書類が用意された。僕はそれを一つ一つ慎重に調べた。
「たな卸しの原簿はありますか?」
たな卸しの原簿とは、仕入れて使わずに残った材料などを決算期末に数えた時の書類だ。一般的に「正」の字を書いて数えたものを指す。清書した物ではなく、あくまでその場で使った物をみせてもらうのが鉄則だ。
「はいよ」
社長が机の引き出しから取り出し、藤村さんに渡した。藤村さんはそれをパラパラと見てから、
「はい」
と僕に差し出した。
「ありがとうございます」
僕がそう言うと、奥さんが、
「山寺さん、お堅いのねえ。藤村さんとはお友達なんでしょ? そんな
「あの、尼寺です」
「あら、ごめんなさい」
奥さんはゲラゲラ笑った。社長もこの人も悪い人ではないのだろうが、あまりにも無神経過ぎる。
「奥さん、例え親友でも、仕事とプライベートは区分けするのが、真の公務員なんですよ」
藤村さんが助け舟を出してくれた。
「藤村さんも彼氏いないそうだから、付き合っちゃえば?」
唐突に奥さんが切り出す。え? 藤村さん、あいつと別れたの? それより、何故僕は彼女がいない事を前提にされているのだろう?
「奥さん、そういう話はやめて下さい」
藤村さんは微笑んでいたが、迷惑なのだろう。僕は、
「話を戻していいですか?」
と奥さんの脱線を修正した。
「は、はい」
奥さんはさすがにまずいと思ったのか、居ずまいを正して僕を見た。
「申告書には、仕掛品のたな卸しも書かれていました。そちらの元になる書類はありますか?」
仕掛品とは、未完成の工事にかかった原価と、それに付随する諸費用をたな卸しと同じく、集計した物だ。完成前はたな卸し資産と同様のあつかいとなり、原価から差し引く処理をする。
「
藤村さんがすかさず答えた。出面帳とは、現場で働いた作業員の出勤簿の事で、これは給料の計算に使われる。
「ではそれを見せて下さい」
社長が机から取り出し、藤村さんに渡す。藤村さんがそれをチラッと見て、僕に差し出す。
「……」
細かい。社長の身上調査でも感じたが、この社長、見た目は豪胆な人だが、商売に関してはかなり神経を使うし、計算高い考えを持っている人のようだ。
「原価計算表もあります。ご覧になりますか?」
奥さんに変な事を言われたせいか、藤村さんはすっかり口調が変わった。
「はい」
僕も愛想笑いをせずに答える。
調査は淡々と進んだ。どの帳簿も完璧に近く、付け入る隙はなかった。
(また申告是認か……)
僕は憂鬱になった。
「時間ですか?」
上の空の顔をしていた僕に、藤村さんが声をかけた。
「あ、はい。また明日参ります」
挨拶をすませ、早々に事務所を出た。今度は藤村さんは声をかけて来なかった。
重い足取りで署に帰った。明日、何か出て来る可能性は薄い。どうしたものか? 先輩に話して、同行してもらおうか? それとも上司の統括官に? それも気が滅入る。自分の無能さを
あれこれ考え、報告をすませ、僕は署を出た。
「え?」
門の脇に、藤村さんが立っていた。
「お疲れ、尼寺君」
「あ、お疲れ様」
僕は顔を引きつらせたように作り笑いをした。
「行きましょうか」
「え?」
藤村さんはそう言うと歩き出した。僕は何も返事をできないまま、彼女を追った。
「ここでいい?」
藤村さんは、近くの喫茶店の前で立ち止まった。
「うん」
拒否する理由はない。僕は藤村さんに続いて、中に入った。藤村さんは奥のボックス席に行き、壁を背にして座った。僕はその向かいに座る。
「ごめんね、強引で」
「え、いや、別に」
強引でも藤村さんと話せるなら構わない。すっかり仕事モードをオフにした僕はそう思った。ウエイトレスが来てオーダーを取る。藤村さんは紅茶、僕はコーヒーを頼んだ。
「尼寺君、頑張ってるわね。私、今日、ドキドキしてたの。いろいろ指摘されたらどうしようって」
「そ、そうなんだ」
例え嘘でも、そんな事を言われると嬉しいものだ。
「それでね」
藤村さんが切り出す。その時、ウエイトレスが紅茶とコーヒーを持って来た。藤村さんはウエイトレスが立ち去るのを待って、
「実は尼寺君にお願いがあるの」
「え?」
何だ、お願いって? 僕は心臓の鼓動が彼女に聞こえてしまうのではないかと心配になった。
「今日調査に入った会社は、これからなの。私、三年かけて、社長と奥さんの考え方を軌道修正してきたの。もう一息なの」
「え?」
何が言いたいのだろう? 藤村さんの顔は、真剣そのものだ。
「あと少しで、あの会社は完全に全うな会社になるわ」
「そう」
僕は思わず冷たい返事をした。しかし藤村さんは気にせず、
「だから、明日仮に何か見つかっても、目を瞑って欲しいの」
「!」
そういう事か。何かと思えば……。
「お願い、尼寺君、私を助けて」
藤村さんはまさしく懇願するような目で僕を見ている。
「今、調査で何か指摘されてしまうと、あの二人はまた元に戻ってしまうわ。将来的には、あの会社はもっと伸びる。だから、今は待って欲しいの。必ず、優良法人にしてみせるから」
藤村さんは本気だ。本気で僕を説得しようとしている。でも僕の答えは決まっていた。
「無理だよ、藤村さん。そんな話には応じられない」
「そう」
藤村さんの顔つきが変わった。
「わかった。もう頼まない。また明日、会いましょう」
彼女はサッと伝票を持ち、レジに歩いて行った。僕はすぐに追いかけ、その手から伝票を取り、
「ここは僕が払うよ」
と言った。
次の日、藤村さんは喫茶店の事を忘れたかのように普通に接して来た。僕も何事もなかったかのように応じた。
結局、何も見つけられなかった。帰りがけに見た藤村さんの顔は忘れられないだろう。明らかに僕を見下していたのだ。でも、彼女にどう思われようと構わない。僕は僕の信念で動いたのだから。
「く……」
しかし、署に戻り、トイレの個室に籠もると、泣いてしまった。何が悲しいのか、悔しいのか、考える事もできないほど、涙が止まらなかった。
でも僕は続ける。辞めろと言われるまで、この仕事を続けたい。誇りを持ってできる仕事だから。
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