新米税務調査官尼寺務の奮闘日記
神村律子
調査ファイル1 水無月葵探偵事務所の場合
僕は
個人課税部門で、税務調査を主な業務としている。でも、どうも性に合わない。
調査対象の事業主のところに行ってもうまく切り込めず、いつも何も見つけられないまま、調査日程が終了してしまう。
先輩や、上司である統括官にいろいろと指導をされたり、一緒に納税者の事業所へ行ったりするのだが、所謂コツが掴めず、喘いでいた。
「自分はこの仕事に向いていないのではないでしょうか?」
先輩に言ってみた事がある。すると、
「一年や二年で、そんな結論を出すな。もっと精進しろ」
と叱られた。確かにそうかも知れない。
そんな僕がこの仕事を続けたいと思ったのは、ある納税者との出会いがきっかけだった。
その人の名前は
事業規模の割には、多額な所得税を納めていて、相当事業がうまくいっている印象を受けた。
一般的に、税務調査は起業して二、三年では行われる事は少ない。密告や何か特別な情報がない限り、あり得ないのだ。しかし、僕は何故か彼女に興味を惹かれ、ダメ元で調査をする事にした。
そして昨年の夏。起業して二年目であるにも拘らず、僕は水無月探偵事務所に調査の連絡をした。申告書には税理士の氏名がないので、自分で作成して提出したようだ。一般的に、関与税理士がいる場合、特別な場合を除いて、調査の連絡は顧問税理士にする。
「お電話ありがとうございます、水無月葵探偵事務所です」
女性の声が言った。僕は高鳴る胸の鼓動を何とか抑えつつ、
「私は、H税務署個人課税部門の尼寺と言います。貴事務所の税務調査にお伺いしたいのですが?」
「まあ、そうですの。まだ仕事を始めて間もないので、いろいろと教えて下さい」
女性の声はとても丁寧だった。僕は更に、
「では日程ですが」
と切り出し、二日間の調査をする事を告げ、電話を切った。
(電話に出たのが、水無月葵さんだろうか? データだと、今年で二十六歳だな)
声だけでどんな人か判断するのは難しいが、とても知的な女性だと思った。普通税務署から電話があると、妙に
「何でウチになんか来るんですか!?」
と怒り出すタイプの人だ。こういう人が、一番困る。
水無月さんは、そのいずれのタイプでもない。ますます会いたくなった。
僕は一体何をしに行くつもりなのか? ふと冷静になって考えた。しかし、納税額から考えて、何か出て来そうな予感がする。探偵事務所を軽く見るつもりはないが、二年連続で納税額が一千万円を超えているのは尋常ではない。行ってみる価値がある。本気でそう思った。
そして数日後、僕は水無月探偵事務所があるグランドビルワンの前にいた。
「ここの五階か……」
緊張して来た。探偵事務所というからには、それなりに人をたくさん見て来ているはずだ。もしかすると、一筋縄では行かないかも知れない。思わずゴクリと唾を呑み込んだ。
一階のロビーからエレベーターホールへと向かう。どうしてかわからないが、このビルのテナントは五階の水無月探偵事務所のみのようだ。立地条件は悪くないのに、この空室の多さは気にかかった。家賃はいくらくらいなのだろう? 水無月さんの家賃は、月五十万円だったが。
いろいろと気になってしまい、五階までいくのに随分手間取ってしまった。エレベーターホールから探偵事務所の入っている部屋までは、外廊下で繋がっている。正面の大通りは、この辺でも指折りの交通渋滞を引き起こす地点だ。僕も納税者のところに行く時は、場合に寄っては署の車を使う事があるが、なるべく通らないようにしている道だ。もうすぐ九時半になろうとしている時刻だが、まだ渋滞は収まっていない。
「……」
そして遂にドアの前に来た。ドアフォンに手を伸ばした時だ。
「お待ちしておりました」
いきなりドアが開き、僕の前に女性が現れた。黒髪ストレートのロングヘア。黒目の多い大きな瞳。高過ぎず、低過ぎずの鼻。薄くて小さめの唇。アイボリーホワイトのスーツを着た、美人だ。この人があの電話の女性だろうか?
「あ、あの……」
あまりのタイミングの良さに、僕は言葉が出なかった。その女性はニコッとして、
「税務署の方ですよね? お時間、正確ですね」
「は、はあ」
僕はようやく落ち着きを取り戻し、上着の内ポケットから身分証を取り出した。
「H税務署個人課税部門の尼寺務です」
「水無月探偵事務所の所長で、水無月葵です」
この人だ。この人が水無月葵さん。想像していたより、ずっと綺麗だ。そして、凄くいい匂いがする。
「どうぞ」
そう促されなかったら、僕はずっとそこで妄想に耽っていたかも知れない。
「どうぞおかけになって下さい」
中に入った。机が三つコの字に並べられていて、真ん中が水無月さんの席だ。「所長」というプレートが立てられている。奥の席にもう一人、女性が座っていた。手前の席は誰も使っていないようだ。
「いらっしゃいませ」
その人も綺麗な人だ。水無月所長はキビキビした印象だが、その女性は穏やかな雰囲気である。机の上のコンピュータで何かを入力している。後で確認させてもらおう。僕はその女性に会釈して、机の手前に配置されている黒い革張りのソファに腰を下ろした。
通常、税務署の調査は、初日の午前中は、経営者の身上調査をする。いきなり帳簿類を見たりはしない。対象者の人となりを見て、どんなところに注意して調査をすべきかを判断するために話をするのだ。何気ない一言から、とんでもない秘密が発覚する事もある。
「どうぞ」
辺りをキョロキョロ見ていると、もう一人の女性がコーヒーを出してくれた。素早い人だ。さっきまでコンピュータを操作していたはずなのに。
「失礼しました。私の部下の
水無月さんが紹介してくれた。
「宜しくお願いします」
神無月さんは笑顔で挨拶した。この人も素敵な人だ。でも僕は断然水無月さんだな。
コホン。何を考えてるんだ。今は仕事中だぞ。
向かいのソファに水無月さんが座った。ドキンとしてしまう。やっぱり綺麗な人だ。
「では、所長さんの身上調査をさせて頂きます」
「はい。何でもお尋ね下さい」
主な内容としては、家族構成、未婚既婚の別、事業を始めるに当たっての経緯など、一見他愛もないような事を尋ねながら、相手の目の動きや、仕草を注意深く観察する。不審な点はその都度問い質す。その点がうまくいけば、調査は成功したも同然なのだ。それくらい比重が大きなものなのである。
しかし、僕は完全に水無月さんに飲まれてしまっていた。肝心な事は何も聞き出せていない。水無月さんは何も拒否していないし、嘘もついていないようなのだが、僕はどんどん見当外れの事を聞かされていた。何故なのか、後で考えてもよくわからない。
「午前中はこの辺で。午後は帳簿類の方を見させて頂きますので」
僕はそう言いながら立ち上がった。
「あら、どうなさいましたの?」
水無月さんは不思議そうな目で僕を見上げた。
「あ、その、昼食をとって来ます。一時には戻りますので」
「まァ、昼食ならもう頼んでありますのよ。こちらでお召し上がり下さい」
「えっ?」
原則として、調査に行った先で食事を頂くのは、極力避けなければならない。調査対象が食堂やレストランの場合は仕方ないのだが、それでも代金は支払うのだ。そうしないと、公平公正な調査を実行できないからである。
「あ、あの、困ります。食事は外でとりますので」
僕がそう言っても、水無月さんは、
「そういう事は、いらっしゃる前に教えて下さらないと。頼んだものが無駄になりますから、こちらで食事して下さい」
「は、はァ……」
出されたのは、高級割烹の豪華な弁当だった。こんなの、代金いくらするんだ? 自腹で出すの、辛いなァ。
「い、頂きます」
「どうぞ」
水無月さんも同じものを食べるようだ。僕は彼女と差し向かいで食事する緊張と、高級弁当の代金が気になるのとで、全く料理を味わう余裕がなかった。
「あれ?」
ふと目を上げると、いつの間にか水無月さんは食事を終えていて、神無月さんと仕事の話をしている。そんなに時間が経ったのか、と思って腕時計を見たが、まだ十二時五分だ。どういう事なのだろう? 水無月さんは弁当を食べなかったのか? お膳は片づけられているから確認はできないが、それにしても何かこの事務所、普通ではない感じがする。
「あ、あの」
僕は食事を終えると、水無月さんに声をかけた。
「あ、おすみでしたのね。美咲、お茶を差し上げて」
「はい」
神無月さんが給湯室の方へと歩いて行く。僕はそれを見てから、
「あの、これいくらですか? お金を支払わないといけませんので」
「そんな、いいですよ。税務署の方からお代を頂くなんてできませんから」
水無月さんはニッコリしてそう言ってくれた。個人的にはそれはとても嬉しい言葉だったが、公務員としては決して受け入れてはいけない言葉なのだ。
「そういう訳にはいきません。規則ですから。お支払い致しますので。おいくらですか?」
「そうですか」
水無月さんは給湯室から戻って来た神無月さんに、
「ねえ、あのお弁当、いくらしたの?」
と尋ねた。小声だったが、聞こえてしまった。
「一万円です」
うわ……。やっぱり……。そのくらいしそうだと思った。弱ったな、そんなにお金持ってないぞ。どうしよう? 払いますって言った手前、困った事になったぞ。
「あ」
そんな事を考えていると、水無月さんが僕の前に座った。
「お弁当の代金なんですけど」
「は、はい」
聞こえていた事を悟られないようにしなくては。僕は表情に気をつけた。
「五百円です」
「はッ?」
僕は耳を疑った。どういう事だ? でも、水無月さんがそう言うのなら、そう思うしかない。まさか、
「一万円と言ってましたよね」
とは言えない。いや、正直言いたくない。そんな心境だった。
「え、でも、そんな安くないですよね?」
僕はそれでも良心が咎めて、そう言わずにはいられなかった。すると水無月さんは微笑んで、
「このお弁当は当事務所で尼寺さんに販売したのです。ですから、五百円ですよ」
「はあ。しかしですね……」
僕はそれでは申し訳ないと思った。
「何でしたら、領収証を切りましょうか?」
「……」
僕は彼女の笑顔に負けてしまった。
「はい」
財布の小銭入れから五百円玉を取り出し、
「ご馳走様でした」
「ありがとうございます」
その時、僕の指先が彼女の手の平に触れた。冷たい。冷たかったが、僕は火傷したと思うくらい、身体が火照った。思わず顔を下に向ける。
「どうされたんですか、お顔が赤いですよ?」
水無月さんが僕の顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫です」
神無月さんが出してくれたお茶を飲み、僕はつい溜息を吐いてしまった。
「ふう」
また水無月さんが僕の顔を覗き込む。
「お疲れなんですか?」
「あ、いえ、そんな事は……」
と答えながらも、実はヘトヘトになっていた。この
そして僕は、水無月さんにいろいろ訊かれ、話す必要がないような事まで言ってしまい、最後は彼女と別れた事まで喋ってしまった。
「あら、もうこんな時間」
水無月さんのその声に僕は我に返って腕時計を見た。わああ、三時だ! 何て事だ!
「す、すみません、ずっと話し込んでしまって……」
「いえいえ。何をお出しすれば宜しいですか?」
水無月さんは楽しそうに尋ねた。完全に遊ばれている気がして来た。
「出納帳と、証憑書類と、請求書、領収書を。それと、今日現在の現金残高を教えて下さい」
「わかりました」
それにしても、さっきから時間の感覚がおかしい。どうしたのだろう?
「え?」
僕は出納帳を見て驚いた。入金と出金の相手先、摘要は細かく記入されているのに、現金残高が全く書かれていないのだ。慌てて提出された申告書を広げてみる。決算書の貸借対照表の現金残高もゼロになっている。
「あの、今日現在の現金残高を教えて下さい」
僕は水無月さんを見て言った。彼女は楽しそうな顔で僕を見ていたが、
「現金はありません。ゼロです」
「……」
やられたか? これはかなり手強い人だぞ。
現金残高がゼロという事は、事業所としての収支は全て水無月さん個人を通しているという事。簡単に言ってしまえば、入金と出金の詳細を辿り切れない可能性があるのだ。
「事業用の預金通帳はありますか?」
「ありません」
水無月さんはニコニコして話す。
「水無月さんの個人名義の通帳は?」
「それもありません」
「……」
お手上げ寸前だ。どうしたらいいのだろう?
「では、水無月さん個人の手持ち現金はどこにありますか?」
「こちらです」
水無月さんは立ち上がり、自分の机に向かった。僕も後についた。
「この中です」
彼女は一番下の引き出しを開け、中から小ぶりのハンドバッグを出した。
「どうぞ、お改め下さい」
「は、はい」
僕はバッグを受け取り、机の上で中身を確認した。
「!」
息を呑んだ。ザッと見ただけで、一千万円くらいある。これを毎日持ち歩いているのだろうか?
「数えてみて下さい」
水無月さんは、微笑んだままで僕を促した。僕は唾を飲み込んで、札束を机の上に出した。職業柄、札束を見たり数えたりするのは慣れているが、この時ばかりは酷く緊張した。何かの罠か、と思ってしまったのだ。
しかし、それは僕の思い過ごしで、何もなかった。札束は、一千二百万円あった。
「現金をこんなに持ち歩くのは非常に危険ですよ」
僕はいつもの指導事項を話した。
「できるだけ手持ち現金は少なくして、大きな支払は小切手か振込みでなさった方が、効率もいいはずです」
「私共の仕事は、振込みや小切手が使えない相手が多いのです。ですから、通帳も小切手帳も使わないのです」
つまり、裏社会という事か? 情報屋とか、垂れ込み屋とかは、現金がいいだろうからな。
「ですが、依頼人も振込みを希望される方がいるでしょう?」
「そういう方は、お断りしていますので」
「……」
研究されているのか? それとも
「時間になりましたので、今日はこれで帰ります。明日は、請求書関係を見させていただきますので」
僕はグッタリして立ち上がった。
「わかりました」
水無月さんも立ち上がった。その時、僕は神無月さんのパソコンに気づいた。
「それはインターネットもできるのですか?」
「はい」
神無月さんも笑顔で答える。
「ではその料金の支払はどうしていますか? 普通クレジットか、通帳から引き落としですよね?」
やった。尻尾を掴んだ。そう思った。しかし、ダメだった。神無月さんが言った。
「ああ、これは無料です。プロバイダーがクライアントさんなんです。調査費と相殺で、十年間無料です」
契約書を確認したが、その通りだった。完全敗北か? しかし、諦めてなるものか!
「わかりました。ではまた明日参ります」
僕は水無月探偵事務所を出た。
そして翌日。僕は再び水無月探偵事務所を訪れた。
請求書と領収書、そして顧客との契約書を全部調べたが、何も見つけられなかった。
こちらはまさに「水も漏らさぬ」という表現がピッタリの状態だった。さすが探偵事務所、というところか。
出向く前に水無月さんの個人資産を調べたが、定期預金はおろか、普通預金すらない。他人名義でしていれば探すのが難しいが、それはないだろう。あの人はそんな小細工はしない。多分、本当に預金はないのだ。そんな気がする。
ただ、念のため法務局で調べたら、あのグランドビルワンは彼女が所有する土地に不動産会社がビルを建て、彼女が借りている形になっていた。何故そんな事をするのか理解できないが、何も不審な点はない。
一つだけ、気になる事がある。それは彼女自身だ。恋人はいるのだろうか? いるだろうな。あれだけの容姿で、事業家でもあり、相当な人脈もあるようだから。僕なんか、相手にもしてくれないだろう。
「尼寺さん」
帰りがけに水無月さんが声をかけた。
「はい」
僕は何だろうと思って振り向いた。
「今度は、個人的にお会いしません?」
彼女は誘うような目で僕を見ている。危うくその気になりそうだったが、何とか公務員としての節度を守れた。
「それは致しかねます。僕が、貴女の住所地の管轄でない税務署に移動になったら大丈夫です」
「まあ、結構言いますのね、尼寺さんも」
その時の彼女の笑顔は、多分一生忘れられないくらい素敵だった。
そして、現在。
僕は再び水無月探偵事務所に行こうとしている。リベンジ。そう言えば聞こえがいい。確かにその思いもある。しかしそれ以上に、僕は彼女の笑顔を見たくて仕方がなかったのだ。
「調査官失格だな」
そう呟き、僕はエレベーターに乗った。
その日は茹だるような暑さだった。
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