第8話
電話を切って、画面に現れた時刻表示を見ると、もう朝の四時を過ぎていた。
耳を澄ましてみると、物音一つせずに静まりかえっている。ベッドから降りて、そろそろと部屋の外へ出た。
冬の夜明けは遅いから、廊下は真っ暗だ。ほんのちょっとの距離だから、灯りはつけずに目をこらして進む。壁に手をつけて進むと、指先に段差が伝わってきた。
忠の部屋の前だ。扉に向かって立つと息を整える。手探りで扉のノブを探して、押し開ける。部屋の中も暗いが、灯りのスイッチはぼくの部屋と同じ場所だから、すぐわかった。蛍光灯の明るさが夜を追い払う。
瞬きしながら見回すと、扇風機や物干し竿が放り込まれた雑然とした物置になっている。死者の気配を消さないように、今までと同じ姿を保存していた部屋じゃない。空っぽであっても、痛々しい冷たさはもう感じない。
母さんは自動運転を信用するようになった。父さんはぼくが予想してたより元気そうだった。なにより、二人とも八年前よりずっと幸せそうだ。
現実にフィルターを一枚加えることは、悪いことだと思えない。二人の選んだ〈現実〉がまがいものだなんて、ぼくは思いたくない。
これもいいんだ。
胸の内で呟いて、ぼくは強く頷いた。
部屋に戻って横になったけど、ちっとも眠くない。まだ興奮や緊張の残り香がして、目を閉じているのも辛いくらいだ。
頓服で出されている睡眠薬のことを思い出したけど、今から飲んだら一日が潰れてしまう。かといって、起き出してすることもない。時間を持てあましたときはネットだ。
タブレットに手を伸ばし、情報の海への窓を開く。
メッセンジャーがちかちか光ってる。メッセージ有り、キティからだ。アニメーションで涙が次々こぼれる顔文字がネムレナイヨーと訴えてくる。タイムスタンプを見ると、三十分ほど前だった。
「まだ起きてる?」
テキストだけのメッセージを返す。
「起きてる!」
「本気でレス速いよね。びっくりした」
即座に返ってきたボイスチャットのリクエストを受け付けて、声を立てないように笑う。
「だって、ヒマだったんだもん」
「ぼくは忙しかった。主に頭がすごく忙しかった」
「なになにー? 勘当されて土下座して詫び入れたりしてたのー?」
キティはときどき、言葉のチョイスがすごくおやじくさい。
ぼくより一歳上なのは嘘で実は二十歳くらい上なんじゃないかと、たまにからかう。ネットの人間関係では、プロフィールの詐称はそんなに珍しくない。さすがに七年の付き合いで、同世代なのはよくわかっているけど。
「いや、うーん。……弟が生きてた」
ぼくは〈忠〉を生きている人間として扱う決心をした。キティとだらだら話すうち、どこかでぽろっと変な漏らし方をするよりも、最初にはっきり伝えた方がいい。
「どういう意味?」
キティの声が硬くなる。慎重な気配で探りを入れてくる。
正直に説明するには、ぼくだけでなく家族の話までしなくちゃいけないし、そもそも信じてもらえる気がしない。幸か不幸か、少しは説得力がありそうな嘘に心当たりがあった。
「思い込みっていうか、妄想っていうか、ぼくが勝手に死んだってことにしてたみたい。症状の一つなのかもしれない。……こっちでもちゃんと医者に行くし、あんま引かないでくれると嬉しいかな」
自分へのダメージがだいぶ大きくて、早口で付け足す。
「あー、そっか。そうなんだ」
キティは妙に歯切れが悪い。精神科にかかるようになったと告白したとき、気にしないと言ってくれたから、これでキティと縁が切れることはないと信じたい。でも、焦りを感じて胸をさする。
「そうなんじゃないかなって思ってた」
「え、なんで?」
早朝なのに大声が出そうになって、あわてて口元を手で覆う。キティがぼくの妄想を疑ってるなんて、考えてもいなかった。
「さっき、法事には帰ったって言ってたけど、あたしと知り合ってからも七回忌があったはずだよね?」
びっくりする。ぼくは、キティに言われるまで七回忌の存在を忘れていた。そのことに、とても驚く。
「七回忌のこと頭にないみたいだったから、そういう抜けがあるのって知識だけで作っちゃった設定っぽいなって」
頭になかったのはその通りだ。法事は両親から連絡があるものだと決めつけていて、自分では考えてもみなかった。
でも、ぼくは七回忌の存在を知識として持っている。祖父母のときに経験だってしている。つまり、ぼくが忠が死んだことを意識していれば、七回忌の年だという気づきくらいはあったはずだ。でも、ぼくの中で、忠の死は三回忌でパッケージングしたみたいに止まっていた。
じゃあ、その風景に上書きを施した今日までの八年間、ぼくにとって忠は死んでいたのか、死んでいなかったのか、どっちだ。とても簡単なことのはずなのに、どうしても答えが出てこない。
「でもね、自覚できたのってすごく良かったと思うよ」
キティはぼくの嘘をすっかり信じて、話を進めている。
でも、ぼくが動揺しているのは、今さら妄想の心配をしているせいじゃない。そうじゃなくて、ぼくの現実はもしかしたらずっと前から〈現実〉に浸食されていたのかもしれない。そういう可能性に気づいてしまった。
いや、きっと、考えすぎた。思い出したくないから、忘れてしまっていただけなんだ。
「実家でゆっくり休めるからさ、ちゃんと健康になるよ」
「うん、それがいいよ。健康は資本ですから」
「体のメンテは大人の責任だよね」
キティと笑い合う。
大丈夫、ちゃんと予定していた決着になった。疲れているから、変な発想に飛びついてしまう。ちゃんと眠った方がいいとか、それだけの話なんだ。
「あ、ごめん。夫から帰るコール来た」
「へ?」
まぬけな声が出る。
「今日、夜勤だったの。だからヒマだったんだ。じゃ、またねー!」
唐突にボイスチャットの終了メッセージが表示される。ぼくは呆然として、モノクロのオフライン表示になったキティのアイコンを見つめる。
「……おまえ、男だろ?」
七年前、知り合った頃、ボイスチェンジャーソフトはまだオモチャみたいなものしかなくて、キティはボイスチャットの流行はネカマには辛いと嘆いていた。どんどん可愛く調整されていく声に最初はずいぶん驚いて、いつのまにかすっかり慣れた。
じゃあ、今、喋っていた人妻は誰なんだ。
キティの冗談だろうか。あとで笑い話になるんだろうか。いったいいつから、キティの加工されてない声を聞いてないんだっけ。
ぼくの〈現実〉には、いったい何枚のフィルターが重ねられているんだろう。
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