第7話

 鳴りだしたベルが電話の着信音だと気づくまで、少しかかった。

 頭がうまく働かない。ベルは電話がかかってきた合図で、携帯電話を探さなくちゃいけなくて、たぶんカバンに入れっぱなしで、カバンはベッドの近くにあるはずだと、自分が今何をしようとしてるのかをいちいち考えないと体が動かない。

 電話を見つけ出したときにはもう三分くらいベルは鳴りっぱなしで、表示されている知らない番号について考える前に、急かされるように通話開始の操作をしてしまう。

「努」

 ぼくの名前を呼ぶ声に、心臓を掴まれる。

「ごめん、驚かせて」

「忠、だよね」

「うん。……大丈夫?」

 スピーカー越しでも、十年前と変わらない忠の声なのは確信できた。

 これでもう、ぼくがまともだと自分でも信じることはできなくなった。そう思ったのを読んだように、忠は言葉を続ける。

「先に言っておくけど、努はおかしくなってない」

「おかしくなってないなら、どうして忠が電話かけてくるんだよ!」

 忠が何を言ってるのか、意味がわからない。

「その理由は今から話すけど、まず落ち着いて欲しいんだ」

「無茶言うなよ……」

 力なく言いながら、ぼくは自分が状況に呆れるだけの余裕を取り戻していることに気づく。誰かに自分の正気を保証されるのは、たとえ意味不明でもそれだけで心強いことだったんだ。

「ぼくがおかしくなくておまえが忠なら、事故が起きなかった可能性に分岐した世界からの電話だとでも言うつもりかよ」

「ちょっと違う。いや、だいぶかな。ぼくは努と同じ世界に存在する。可能性を乗り換えたわけでもない」

 説明を求めて沈黙するぼくに、忠は続ける。

「ぼくの肉体はちゃんと十年前に破壊されてる。ちゃんとってことはないか。まあ、死んだのは間違いないよ。この〈ぼく〉はネットにアーカイブされた情報を元に再起動された忠だ」

「AIだって言いたいの?」

 確認の言葉を挟みがら体を起こすと、視界の隅で何かが動いてぎょっとする。カーテンの隙間から見える窓が、外が真っ暗なせいで鏡のようにぼくを映していた。

「〈ぼく〉を再構成したのは人間じゃなく、別な形の知性体だ。つまり人工ではないから、AIという言葉は正しくないかな。どう考えても、今の人類に死者の人格を再現するのはまだ無理だろう」

「回りくどい言い方ばかりする」

「言葉の選び方が難しいんだよ。本当を言えば〈彼ら〉も自分たちを人間と定義しているし、きみたちと〈彼ら〉のどちらも自分たちの居場所を現実と認識している。とはいえ、きみたちから見れば〈彼ら〉がネットの中にいることは変えようがないから、うかつな言葉を選ぶと所有物扱いされそうで神経質にもなるんだよ」

 言い訳がましさと非難がましさが混じった声が答える。こんなに複雑な感情を発するものは、確かにまだ人間の手では作り出せなそうだ。

「〈彼ら〉はネットの中にいる?」

 ぼくは鸚鵡返しに聞く。

「そう。〈彼ら〉はネットに自然発生した知性だ。事実は小説より奇なり、マンガみたいだ、そう思うのはお互い様だよ。世界の外側が本当にあると気づいてしまった気持ちを、想像できるかい?」

 考え込んでぼくが首を傾げると、窓の半分透けたぼくも同じ角度に首を曲げる。まるで、そこに忠がいるみたいに見える。ぼくがちゃんと話を聞いているかどうか、じっと様子を伺っているようだ。

「わからない。でも、もしぼくのいる世界に外側があったら、すごく怖いと思う」

 外側と内側という言葉で区切ると、外から覗き込まれているような印象を抱いてしまう。よくわからないものに見つめられるイメージは恐怖や警戒に繋がる。

 それに、外側であるぼくらは、つい内側を下位に位置付けてしまいそうだ。実際には〈彼ら〉の技術の方が進んでいたとしても、おかまいなしに。

「言葉に神経使うのわかるよ」

 ぼくが言うと、忠は理解してくれて嬉しいと笑ってから話を続ける。

「恐怖の克服のために外側の住人を理解しようって、できるだけ精巧なコピーを作ってみたりしてる。その副産物が〈ぼく〉みたいな死者の復活なんだ。もちろん、すべての死者を甦らせてるわけじゃない。ぼくが選ばれたのは努のおかげだよ」

 スピーカーの向こうから、ぼくとキティの会話が聞こえてきた。

 ネットに意識が生まれたとき、お互いにこちらとあちらに気づけるかどうか。まるで予言のように聞こえる、いつもの与太話。

「……ただの思いつきだよ。でたらめで、でまかせだ」

「〈彼ら〉も、たぶんそうだろうとは思ってた。同じようなことを言ってる人間は他にもいっぱいいて、何度も偶然の一致を確かめてきた。けど、努を脅威のない例外と断定する理由もなかった」

 窓の向こうから、ぼくが見つめている。どんな表情でどういう反応するか、一つも見逃さないようにぼくを見ている。

「どうして、こんなことするんだ」

「目的は接触だよ。〈彼ら〉は自分たちに気づいていそうな存在を選んで、コンタクトを試みている。そこに新しい世界があるんだ。どうして、触れてみずにいられる?」

 ぼくは戸惑ったように瞬きする。

 攻撃と疑った。攻撃と疑わせてしまった。お互いの溝に気づいて、ぼくと鏡の中のぼくは見つめ合う。

 そう。〈彼ら〉に敵意はない。

 肩に入っていた力をゆるめて、ゆっくり深い息を吐き出す。

「やり方が誤解されやすいよ」

「適切な方法を知るために、試してみてるんだよ」

 開き直った答えを、申し訳なさそうに言われる。

 窓のなかのぼくは困惑気味の笑顔だ。<彼ら>はまだぼくらを理解できたわけじゃなく、トライアンドエラーを繰り返している段階なんだ。

 無知な子どもの失敗を責めるのはやめて、ぼくの疑問を解消することにする。

「どうやって、父さんや母さんの記憶を改ざんしたんだ」

「〈彼ら〉にそちらの人間の記憶を直接変えることはできないよ。でも、人間の記憶は、もともと外部装置の記録に頼っている。自分が覚えていることとデータとして記録されたことが違ったとき、どっちを信用するか自分の身で確かめただろ。そして、今は外部データのほとんどが、〈彼ら〉に書き換え可能な形式になっている」

 確かに、思い出は簡単に美化される。過去は強固な形を持っておらず、枠を整えてやれば姿をすぐに変えてしまう。

「父さんも母さんもぼくが生きていることを望んでいた。〈彼ら〉が望みどおりの歴史を用意したから、そっちを選んだんだ。〈ぼく〉にはまだ人格しかなくて直接会うことはできないから、転勤という形で整合性を用意する。思い込みでつじつまを合わせるのは、きみたちの得意技だろ」

「分岐したのは歴史か」

「世界じゃなくてね」

 腑に落ちたとまでは言い切れないけど、そういうものかなと思ってしまった。

 床に置いたままだったマグカップを手にとる。すっかり冷たくなったハーブティで、まだ胃の上のあたりにわだかまってる色々を飲み下すことにする。舌の上を通るとき草のような匂いがした。美味しいと思えたのは、喉が渇いていたせいかもしれない。

「忠は事故で死ななかったって、父さんたちは本当に信じてるのかな?」

「そうであって欲しいから、信じているように振る舞っているんじゃないかって気持ちは少しする。でも〈ぼく〉はぼくが偽物だと思わない」

「忠とは少し違う気がするけど」

 会話の感想を素直に口にすると、〈忠〉の声が笑みを含んだ。

「まだリハビリ中だって思って欲しいな」

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