第5話

 ベッドにうつぶせになって目を閉じる。体がどこまでも沈んでいくような気がする。

 気分が悪いからと席を立つぼくを、両親は優しく思いやってくれた。嘘をついているようには見えなかったし、ぼくを騙す理由がない。

 でも、だからといって、ぼくの方が現実を見失っているとは思えない。

 床にうずくまって泣いている母さんの丸まった背中も、父さんが膝の上で握りしめている手の震えも、記憶のすべてがぼくの脳が作り出した幻のはずがない。

 もしかしたらと不安になって、カバンの中から薬の紙袋を取り出す。病院では軽いうつ病と言われて、処方されたのは不安をやわらげる薬だった。今、確かめてみて、記憶と違う薬があるなんてことはない。

 じゃあ、幻想の世界の住人は父さんと母さんの方なのか。息子が死んだ現実を拒否して、二人してもう一つの現実を作り出してしまったのか。

 ぼくと両親と、どちらが間違っているにしろ、妄想の範疇が忠の死についてだけに留まっているのも、なんだか変に思える。まるで日常生活に支障が出ないように、都合良く調整されているみたいだ。

 それとも、現実と乖離している自分に気づいていないだけなんだろうか。不定型なジェルに取り囲まれているような窒息感をおぼえる。

「気持ちが悪い」

 呟いてみると、自分の声はいつもどおりでほっとする。寝転がったまま仰向けになると、まぶたを開ける。目に映るのは、ちゃんと自分の部屋の天井だ。

 もう一度、寝返りを打とうとしたとき、ノックの音がした。扉の向こうから、母さんの小さな声がする。

「お茶を持って来てみたけど、寝てる?」

「……起きてるよ」

 少し迷ってから返事をすると、母さんがドアを開けて入ってくる。片手で持ったお盆の上には、マグカップとデジタルフォトフレームが乗っていた。

「ハーブティをいれてみたの。良い香りで美味しいのよ。それにね、気のせいかも知れないけど、飲むとほっとするの」

「ありがとう」

「お風呂のお湯は入ってるから、好きなときにどうぞ。今日はもう寝ちゃってもいいけど」

 ベッドに起き上がったぼくにマグカップを渡したあとも、母さんは何か言いたそうに、部屋を眺めたりぼくの顔を見たりと落ち着かない。

「どうしたの?」

「あのね、最近の忠の写真を見たら、納得できるんじゃない? お父さんはもっと落ち着いてからがいいんじゃないかって言うんだけど……」

 母さんの手の中の白く縁取られた長方形を、じっと見る。

 ぼくが狂っている証拠が、そこにあるのか。それとも、誰も映っていない写真を見せられて、両親の狂気を思い知らされるのか。いったい、どっちの方がマシだろう。

「やっぱり、今度にするね」

 きっとずいぶん混乱した顔をしたんだろう。母さんが慌てた様子でフォトフレームを引っ込めようとするのを押しとどめる。

 曖昧なままで世界がおぼつかないのが、一番怖い。

 一口も飲まないままマグカップは床に置いて、フォトフレームを両手に受け取る。母さんがリモコンに触れると画面が灯って、あっけなく忠が笑いかけてきた。

 赤いレンガの建物を背にして立っている忠は、ぼくと同じように少し中年に近づいている。まだ若いけど、十年前に比べたらおじさんになった中途半端さが、まさに今のぼくと同じだ。

「忠だね」

 他になんて言っていいかわからず、名前を呼ぶ。

「この間ね、イルミネーションを観に行ったって送ってきたの。お父さん、今は写真なんかもっと動揺するんじゃないかって言ってたけど、やっぱり見た方が納得するわよね」

 気をよくしたふうに、母さんは笑っている。

 地面が崩れて宙に浮いているような錯覚がして、深呼吸する。

「ちょっと疲れちゃった。今日はやっぱりもう寝るよ」

 やけに冷静な声だなと自分で思いながら、とても落ち着いた動作でフォトフレームを返す。

 あとで飲むからマグカップは置いて行ってと頼んで、部屋から出て行く母さんを見送って、ベッドに横になる。すべての行動を、少し離れたところから眺めているような感覚だった。

 ショックが大きすぎると冷静になるって聞いたことがあるけど、こういうふうに自分と自分が切り離されることを言うんじゃないだろうか。

 ぼくの記憶は偽物なのか。いつから本物の現実と違ってしまったのか。どこまでを作り替えてしまっているのか。どうしたら元に戻せるのか。

 いくつもの疑問が波のように押し寄せてきて、ぼくは呑み込まれて溺れてしまわないようにシーツを強く握りしめていた。

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