第4話

 残業せずに帰って来た父と再会を果たす。妙に照れ臭くて、素っ気ない挨拶だけした。

 八年ぶりの父さんは髪がずいぶん白くなっていたけど、表情や仕草は昔と変わらない。老けていないのは、夫婦揃ってのことみたいだ。

「それで、体の具合はどうなんだ?」

尋ねる父さんの口調も、自然体を心がけようとし過ぎてぎこちなくなっていて、親子なんだなと笑いそうになった。

「ちょっと疲れただけで、そんなに悪いわけじゃないよ。仕事も探そうと思ってるし」

「しばらく、のんびりしてもいいんじゃないか。うちにいる分には、すぐに働かなくても心配いらないぞ」

 芝居がかった口調の父さんに、後ろで母さんも深々と頷いている。両親をものすごく心配させていたことに、ぼくは全然気づいていなかった。

「ごめん。ありがとう。……まあ、でも、バイトくらいは探すよ。職歴があんまり空いちゃうのも心配だし」

 親のありがたみなんて言葉が頭をよぎるのは、大人に一歩近づいた証拠かもしれない。東京から帰ってくるとき、土産の一つも買ってこなかったのを、こっそり反省した。

 そして、ひさしぶりに家族で食卓を囲む。

 みんな揃っても、四人掛けのテーブルに三人だけなのが胸の奥を引っ掻く。こういう風景から逃げ続けていたんだと、突きつけられているよう。やっぱり、ぼくは子どもだ。

「オムレツ、美味しくなかった?」

 気遣うような母さんの声に、急いで首を振る。憂うつが顔に出ていたに違いない。

「ううん。ちょっと、靴、どこに買いに行こうか考えてただけ」

 とっさに思いついた事を口にする。

 せっかく好物を作ってくれたのにちっとも味わっていなかった理由を、両親には明かしたくない。心配はもうじゅうぶんにさせているから、これ以上、重さを足したくない。気づいてないわけないだろうけど、口に出して打ち明けるのはまた別だ。

「あの靴で買い物に出かけるの、危ないわね」

 駅前の道路でスケートリンクのように振る舞ったぼくを思い出したのか、母さんは顔を曇らせる。

「でも、他にないから。……昔の靴、とってある?」

 段ボールの中に革靴はあるが、スニーカーよりもっと雪道に向かない。

「忠の靴、ないのか?」

 味噌汁から顔を上げた父さんの言葉が、胸の真ん中あたりに冷たい氷みたいな感触で飛び込んできて嫌な音を立てる。

 十年前も八年前も、忠の部屋は何一つ変わってなかった。綺麗に整頓して、そのまま封印されていた。そんなふうに捨てられずに取って置かれた靴を、かわりに履く準備はまだできてない。

 嫌だ、と口先まで出かかったとき、母さんが困ったように首を傾げた。

「あの子、だいたい持って行っちゃったから」

「持ってって、え?」

 意味がよくわからない。

 比喩の一種だろうか。死者が持って行くとか連れて行くとか、怪談やオカルトではよく聞くけど、そういう文脈じゃなかった気がする。

「転勤にね、みんな持ってっちゃったのよ。靴って場所取るから、残しても邪魔でしょ」

「一足くらいないのか? 俺の靴じゃ、小さいだろうし」

 母さんと父さんが何を言っているのか、本当によくわからない。

「なんで、そんな、忠が生きてるみたいな言い方するんだよ」

 絞り出した声は震えていた。

 母さんがぽかんとした顔でぼくを見る。父さんは卵の殻を噛んでしまったように眉をしかめる。

 なんだか、とても奇妙な予感がした。

 今まさに空が崩れ落ちようとしているのに気づいたみたいに、足下が揺れているような不安定さを感じる。

「努、何言ってるの?」

「それはこっちの台詞だよ!」

「ちょっと落ち着きなさい」

「だから……」

 喉の奥で言葉が詰まった。

 父さんと母さんが不安げに目配せしている。

 これじゃ、まるで、おかしいのはぼくの方みたいだ。

 左隣に視線を向ける。ずっと忠の場所だった椅子は今ももちろん空っぽで、弟が座っているなんてことはない。ひどく苦いつばを飲み込んで、両親の方へ向き直る。

「忠は十年前に事故で死んだだろ!」

 自然と語気が荒くなってしまう。

「事故のときは二ヶ月も入院したけど、どうして死んだなんて言うの……。忠はリハビリも頑張って、大学も一年休学したけどちゃんと卒業したでしょう」

 母さんは戸惑った顔でぼくを見て、かんしゃくを起こした子どもに言い聞かせるようにゆっくりした口調で言う。

「そうだ。忠のときも大変だったけど、ちゃんと元気になったんだ。努も交通事故に遭ったと思って、ゆっくりちゃんと治すのがいいな」

 父さんが、精一杯明るく笑う。

 忠が死んだなんてぼくの妄想でしかない。二人の態度は、そう言っていた。

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