第2話
あんなに大きかったはずの実家が小さく見えるなんてことはなく、特に感慨もなく玄関の扉を開ける。うちの匂いがした。
「荷物、あんたの部屋に全部入れてもらったからね」
かけられた声に頷いて、廊下の奥の階段を登る。壁紙が知らない色になっていて、変わっていないという気持ちの方が錯覚だったと気づいた。
二階にあがってすぐの扉は素通りして、奥のシールをはがした跡が残っているドアを開ければ、ぼくの部屋だ。置きっぱなしだった家具は綺麗に埃が払ってあって、ベッドにもシーツがかかっていた。
「綺麗にしといてくれたんだ、ありがとう」
一階に向かって、声を投げておく。
肩掛けカバンを下ろして、脱いだコートを椅子に向かって放る。床に落ちたけど気にしないことにして、ベッドに腰掛けた。扉の横に積んである段ボール箱に手をつけるのは、もっと後でいい。ずいぶん持ち物を処分してきたというのに、段ボールで出来たタワーはうんざりするような質量があった。
寝転がって、カバンからタブレット端末を引っ張り出した。常駐のメッセンジャーソフトを開いて、キティのアイコンを指先でつっつく。
「おつかれー」
アニメ絵のアイコンがウィンクして、舌っ足らずな甘い声が返ってきた。キティいわく、男の考えるかわいい女の子が出しそうな声だ。
声を保護するべき個人情報とするかは、人によって判断がわかれる。考えるのが面倒くさいのでリアルと変えていないというぼくは、多数派に属する。でも、少数派も商売が成立するくらいの数はいて、ボイスチェンジャーソフトの進歩は著しい。
キティは、進化の産物で自分の声を加工するのを楽しんでる。ハンドルに相応しい声を作りたいんだそうだ。ぼくにはキティの情熱や執念が理解できないけど、趣味なんてそんなものだろう。
「反応、早い」
「そろそろかなって思ってたから」
「なんで待ち構えてんだよ」
「都落ちをリアルタイム観察できる機会って、あんまりなさそうじゃん」
大げさな言葉の選び方に、心配されているのかなと苦笑いが浮かんだ。
この半年、ぼくにロクなことがなかったのをキティはよく知っている。恋人と別れて、精神科のデビューを決めて、仕事を辞めて、あげく実家に戻ったんだから、自殺の準備を始める頃合いくらいに思われているかもしれない。
「都忘れの花、机に飾って涙した方がいい?」
大丈夫だと言うのもわざとらしい気がして、笑い話のように受けておく。
自分ではそれほど切羽詰まっているつもりはない。深刻な理由があって引っ越しを決めたわけじゃなく、東京に留まる理由がなくなってしまったというのが一番近い。
「今までさ……」
キティの声が少しあらたまり、伺うような調子になる。
「知り合ってから家族の話って聞いたことないし、親と何かあるのかと思ってた」
「ああ」
そういえば、キティとは出会って七年だから、帰省したことも一度もなかった。
「親とは普通に、けっこう仲良いと思う」
さっき素通りした扉が脳裏に浮かぶ。
階段をあがってすぐの部屋と奥の部屋、どっちを取るかじゃんけんで決めた。あの時、負けていれば、自分の部屋に戻るためにいちいちあの扉の前を通らなくても済んで、扉の奥にある部屋の寒々しさを、もっと意識の隅に追いやっておけたはずだ。
「何かあったっていうか、なくなったっていうか。……弟がさ、双子の弟がいたんだけど、死んじゃったんだ。それで、家のことをあんまり思い出したくなかった」
弟の忠とぼくはよく似ていたけど、特に仲が良いわけじゃなかった。
双子でセット扱いされたり比べられたりするのが嫌で、高校からはわざと違う学校を選んだ。ぼくが東京の大学を選んでからは、地元の大学に進んだ忠と離れて暮らすようになって、一緒にいる時間はほとんどなかった。
二十歳の誕生日の少し前、母から忠が事故に遭ったと電話があった。二時間後に、今度は父から死んだという連絡が入った。
「友達の車に乗ってて、大型トラックと衝突したって。綺麗にしてもらってから会ったから、事故がどんなふうだったかピンと来ないんだけど」
本当は、よくわかっていないのは事故の具合じゃなく、忠がもういないということだ。
遺体との対面も通夜も葬式も、現実感を持って思い出せない。映画かドラマを見た記憶を辿っているような気分になる。
「自分がひとりっ子になったことを上手く受け入れられなくて、弟がいない実家から逃げるようになったんだ。忠が死んでから今日まで、ほぼ十年間、どうしても出席しなくちゃいけない法事でしか帰らなかった」
説明してるうちに、どんどん情けなくなってくる。
「きっとさ、成人する直前ってタイミングでショック受けちゃって、大人にもなり損なったんだよね」
「……ごめん。上手い返しが思いつかない」
冗談のつもりで上っ滑りしたぼくに、キティは律儀に謝ってくれた。
「大変だね」
労られて、今度こそ、さっき言えなかった言葉を口にする。
「大丈夫だよ。……実家に帰ったのはさ、色々重なって疲れたのもあるんだけど、弟のことと向き合ってちょっとは大人になろうかなって思ったんだ。いい機会だしって」
「もうすぐ三十歳だしねー。ウェルカム三十路。ていっても、なんも変わらないよ」
ぼくより一つ年上のキティは、急に先輩風を吹かす。去年の誕生日の前夜、十の位の数字が変わるだけのことがなぜこんなに動揺するのだろうと長時間くだを巻いていたくせに。
「三十歳って、もう完全に落ち着いた大人って感じするよな。三十まで生きたら長生きって思ってた時期もあったのに」
人生にまつわる告白で高まった感傷が気恥ずかしくなって、急いで雑談という冷や水をぶっかける。
「あ、でも、三十歳のキャラってわりと大人げない大人枠じゃない?」
キティがのってきて、キャラクターの顔と名前が幾つか液晶にポップアップする。ベッドに腹ばいになって画面を眺めて、ぼくも思い出したキャラを表示させた。
「もうちょっと、分別をわきまえた方がいい奴ばっかりだな」
「余裕の無さにリアリティあるキャラが多いの、制作者の思惑とか経験を感じさせる」
とりとめなく喋っていると、余裕が戻って来る。おかげで、今さら、息子の部屋から知らない声がしたら、両親はびっくりするかもしれないと気づけた。コンシェルジュアプリに、ヘッドセットの機能と値段比較の指示を出しておく。
家の中で誰かの目を気にする感覚はひさしぶりで、わずらわしさと懐かしさの混じった妙な気分だった。
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