夢見合わせ
桐井フミオ
第1話
地下鉄と高架駅の関係は一種のパラドックスじゃないだろうかと考えながら、ホームの階段を下りる。改札の向こう側で、八年ぶりに見る母が手を振っていた。
記憶とあまり印象の変わらない笑顔に、なんだか戸惑う。小さくなったとか、頼りなく見えるとか、そういう感想を抱く準備をしていたつもりなのに、前より明るく若く見えるくらい。
まず、最初になんて言えばいいんだろう。ひさしぶり、ただいま、それとも元気だったか尋ねた方がいいのか。
「なあに、努。お母さんが懐かしくて泣きそうなの?」
挨拶の言葉に迷って黙り込むぼくに、母さんは呆れたように笑った。
「違うよ」
ぶっきらぼうに答えて、カバンを持とうとする手を押しとどめる。母親というものは、いったい息子が何歳になったら小さい男の子という印象を改めるんだろう。
「父さんは車の中?」
もう一人、しばらくぶりの対面になるはずの人を捜して周囲を見回す。
「水曜の昼間に帰ってきて、何言ってるの。お父さんは仕事よ」
「え、じゃあ、母さん、バスで来たの?」
「バスで迎えに来てもしょうがないでしょ。お母さん、車の免許取ったの」
得意げに答える母さんに、ぼくは驚いて瞬きする。ぼくの母さんは、びっくりするほど運動が苦手で、自転車もできれば乗らないで欲しいような人だったはずなのに、自動車を運転するなんて正気の沙汰と思えない。しかも、雪道だ。
「そんな顔しないで。大丈夫、オートノマス限定だから」
たぶん、大量殺戮を告白されたような顔をしていただろうぼくは、肩の力が抜けるのを感じて、出口へ向かう。オートノマス限定の運転免許証は、非常時でなければ手動運転が許可されない。オートパイロットシステムに運転を任せるなら、母さんが歩行者に向かって車を突っ込ませる心配をしなくて済む。
ほっとし過ぎだと不満そうな母さんと一緒に、駅の自動ドアを通り抜ける。暖房の圏外は、氷点下の世界だ。昼の太陽を照り返す一面の白がまぶしくて、冬は明るい季節だと思い出した。
スニーカーの底が滑るせいでのろのろ進むぼくを追い越して、母さんは信号機を渡った先の路肩に停めてあるレンガ色の車に乗り込む。うちの車はいつもシルバーやグレイの地味な色だったから、少しだけ驚いた。
助手席に乗り込むと、シートベルトをするように促された。
「乗った人がみんなシートベルトしないと、走り出さないのよ」
母さんの口調は、まるでペット自慢のようだ。車の趣味が変わったんじゃなく、車との付き合い方が変わったのかもしれない。確かに、ベルトを装着すると、待っていたかのように滑り出す車は眠りから覚めた生き物のように感じられた。
「自動運転なんて何かあったとき怖いって言うかと思ってた」
走行車線になめらかに合流するのを眺めてから、母さんの横顔を見る。
「全部の車が自動運転になった方が、自動車事故は起こらないって言うじゃない」
古くさいと笑われた。あと数年で還暦のこの人は、生まれたときからコンピュータが身近な存在だったわけじゃない。だからもっと抵抗があるかと思ったのは、ぼくの方の偏見だったようだ。
住宅街の中へ車が入っていく。平日の昼間は静まりかえっているのは、八年前から変わらない。でも、よく知っている場所の中に、見たことのないマンションや記憶にはない色の一軒家が混じっている。八年間は長くはないが、気にならないほど短いわけでもない。
「冬靴を買わなくちゃ」
雪の降る町の住人に戻ることを思って、小さく呟いた。
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