アベさんがアベさんと呼ばれるより数年前に、アベさんは阿部陽介としてこの世に生を受けた。

 阿部陽介はすくすくと育った。

 やんちゃな幼稚園を卒園し、少々乱暴な小学校生活を送った。

 その頃、既に彼は皆からアベさんと呼ばれていた。

 理由は単純だった。

 同級生には彼より先にアッちゃん、アーちゃん、ヨーちゃん、ヨッチがいたのだ。

 つまり、小学生の頭脳をもってして、阿部陽介へ与えられる様なあだ名には全て先約がいた。

 しかし、彼はアベ「さん」となった。

 アベ「くん」でも、アベ「ちゃん」でもなく。


 それは、なぜか?


 一月第二月曜日。

 午前七時半。

 アベさんの家から徒歩三分の私鉄駅の前にはコンビニがある。

 そのコンビニにはトイレがある。

 アベさんはそこから出られないでいた。


 それは、なぜか?


 一月第二月曜日。

 午前七時。

 アベさんはいつもどおり、落ち着いたネイビーのスーツに、お気に入りのドットのネクタイを締め、そろそろ角が擦り切れてきた鞄を持ったところでテレビを消した。

 アベさんのいつもどおりの出勤風景だ。

 玄関前の壁に打ったフックに掛かったブラックのコートを羽織り、百円均一の靴ベラで二万以上した革靴を履いた。

 そして、玄関に掛けた鏡を見て、にっこり笑った。

 営業は笑顔が大事だ。毎日、欠かさず、笑顔を作れ!

 それが口癖の、今の上司がくれた鏡だ。

 その鏡に向かって、出勤前に全力で笑顔を作る。アベさんの日課だった。

 一重の目を一杯に細めて、口角を思い切り引き上げて、歯をのぞかせる。

 鏡をくれた上司は社内でもやり手で、アベさんは彼を尊敬していた。

 つまり、毎朝の鏡の前での日課は願掛けみたいなものだった。


 それが、なぜだ?


 アベさんは鏡の中の自分を、笑顔のまま見つめた。

 いつもの笑顔が、少しホコリのついた鏡に映っている。


 違う。いつもと違う。


 アベさんは元来、楽観主義者だ。

 小学校でイタズラをしたために親が呼び出された時も、中学校で初めて好きな女の子に告白した時も、高校で大学受験した時も、大学で昇級と留年の狭間にいた学期末も、アベさんは楽観的だった。


 違う。何かが違うし、それが気になる。


 しかし、アベさんはそれをなんと表現すれば良いのか分からない。

 ただ、経験の無い感覚ではない。

 それだけは分かった。


 だが、アベさん楽観主義者だ。

「ま、こんな日もあるか」

と、呟いた。

 アベさんは、金閣寺のキーホルダーがついた鍵で玄関のドアを閉めた。


 一月第二月曜日。

 午前七時五分。

 アベさんは、自宅から徒歩三分の私鉄駅前まで来ていた。

 アベさんはいつもこの駅から、電車に揺られて通勤していた。

 そして、アベさんはこの駅前のコンビニの前に設置された灰皿でタバコを毎朝吸って出勤していた。

 朝七時過ぎ、駅前はいまだ通勤客が少ないこの時間帯の、まだ埃っぽくない空気をアベさんはタバコで汚すのが日課だった。

 冬の寒々しい駅前の風景を見つつ、まだ街が本格的に動き出す前の、その新鮮で、清廉な、無垢な空気を独り占めしているようで、この時間帯にここで吸うタバコをアベさんは非常に気に入っていた。

 そして、アベさんは一本目を吸い終わり、二本目のタバコに火を点けて駅を見た時、何かにふと気づいた。

 しかし、何に気づいたのか分からない。

 もやもやした、曖昧な気持ちで二本目のタバコをフィルター近くまで吸ったところだった。


 まだ、行かなくて良いかな。


 ふと、そう思ったアベさんは灰皿でタバコを押しつぶして、もう一本取り出して火を点けた。

 アベさんは愛煙家だ。

 そして、同時にそれも人から愛される愛煙家を目指している。

 歩きタバコとポイ捨てはせず、常に灰皿のあるところか、他人の迷惑にならない場所では携帯灰皿でタバコは吸う。

 入社以来住んでいる今の部屋でも、いつ、いかなる時に、どんな拍子で好きな女性が入ってくるか解らないため、タバコは常にベランダで吸った。部屋がヤニ臭いために好きな女性に嫌われたくはない。

 スーツは毎日消臭スプレーを吹き、なるべく口臭を良くするガムを噛んでいる。

 アベさんはそんな愛煙家だ。

 だが、この時間帯、この場所で、三本目のタバコを吸うのは初めてだった。


 たまには、良いかな。


 冷たく、乾いた空気の中で吸うタバコがアベさんは好きだった。

 三本目のタバコをゆっくりと吸い終えると、少し頭がクラクラし、喉が渇いた。

 コーヒーでも買って行こう、とアベさんはコンビニに入った。

 コンビニの自動ドアをくぐると、アベさんは暖かい店内の空気に包まれた。

 のどかに来客を合図する電子音が響き、レジの中タバコを整理していた店員がやる気のない「いっらいしゃいませ」を言った。店内に客の姿はない。

 飲み物売り場で、よく買うボトル缶のコーヒーを手にして、アベさんはレジに向かった。

 やはりやる気のない「いらっしゃいませ」を言った店員は、声とは裏腹に素早い手つきでコーヒーのバーコードを読み取り、あっという間にビニル袋に入れてアベさんに差し出した。

 会計を済ませて店を出る際、アベさんの背中にやる気のない「ありがとうございます」が聞こえた。


 店から出ると、やはり冷たい冬の空気にアベさんは目が覚める気持ちだった。

 そろそろ駅前にも人が増えてきた。

 駅に向かおうとアベさんは目を駅に向けた。

 しかし、灰皿をちらりと見た。


 まだ、良いかな。

 大学時代、就活用にと買ってそれ以来締めている腕時計を見た。

 七時二十分。

 

 まだ、良いかな。

 アベさんは買ったコーヒーを開けて一口飲んで鞄にしまうと、タバコを取り出し、火を点けた。

 大きく吸い込み、煙を吐いた。

 四本目だ。

 口が渇いて、鞄にしまったコーヒーを取り出して、一口飲んだ。

 改めてアベさんはタバコを大きく吸い込んだ。と、少し咳きこんだ。

 落ち着いてもう一口吸おうとするが、大きく吸えない。

 少し、頭が重く感じる。

 吸いすぎか、と思う。思うように吸えない。

 そろそろ電車に乗らないと。アベさんは顔を駅に向けた。

 頭が重い。

 うまくタバコが吸えない。

 行かなくては。

 今日やらないといけない仕事がある。

 にっこり笑う。

 笑えない。

 頭が重いんだ。

 仕事に行かなくては。

 四本目のタバコだ。

 頭が重い。

 行かないと。

 タバコが吸えない。

 電車が。

 笑えない。

 タバコが。

 重い。

 笑え。

 息が。


 吐く。


 アベさんはタバコを灰皿に突っ込み、コンビニに入った。

 一瞬の理性だった。

 コンビニの中にはトイレがある。

 空いている。

 トイレに入る。

 便座を上げる。


 アベさんは、吐いた。


 下っ腹が、胃が、喉が縮み、アベさんの中に入っていた物が食道を逆流した。

 最初に黒っぽい、コーヒーが。続いて今朝の朝食であろう茶色いや白の吐瀉物がアベさんからあふれ出た。

 物が出なくなると、胃のあたりが痛んだ。

 鼓動が早まり、息が荒い。

 アベさんの中が空っぽになっても、アベさんは少しの間便器に向かってえづいていたが、何も出ないと口を閉じると急に寒気がして文字通りブルブル震えた。

 それも通り越すと、頭がズンと重くなり、顔を上げられない。

 アベさんは、さっきまでアベさんの中にあったもので汚れた便器の中を見れず、目を閉じた。

 耳鳴りがひどい。

 薄いトイレの扉越しに聞こえるコンビニの有線放送すらうるさい。


 アベさんはふと、気づいた。


 今朝の、鏡を見たときの感覚。


 あれは、不安だ。


 なぜ、今気づいたのか解らない。しかし、吐き気と耳鳴りの中、アベさんは咄嗟にそれを思い出していた。

 何か解らないが、鏡を見た時、自分は不安だった。


 まだ、行かなくて良いかな。


 三本目のタバコを吸ったときよぎった、曖昧な気持ち。あれも不安だ。

 駅を見た時だ。


 大体、アベさんには察しがついた。

 アベさんのことはアベさんが一番よくわかっていると自負している。

 アベさんは何故かはわからないが、今の自分に気づいた。


 不安で、不安で、不安で、不安で、不安で仕方ないのだ。


 それは、なぜか?


 解らない。


 ただ、アベさんは頭を抱えた。

 コンビニのトイレで。

 そして、さらに気づいた。


 不安で、駅に行けない。


 つまり、仕事に行けない。


 一月第二月曜日。

 午前七時半。

 アベさんはトイレから出られないでいた。

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アベさん 5mg 江水 裕一 @y_esui

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