第48話 母親
「どういうこと?」
僕はアカネから手渡された耳塞に訊いた。
ニャーァ。 「何が?」
「マキノさんは耳のことわかっていたよ。なぜアカネには耳も瞳の色も普通の猫に見えるの?」
耳塞は答えない。
「過去に猫を傷つけていたから?」
耳塞は赤い瞳を、アカネと同じように真っ直ぐ僕に向けて言った。
ニャーァ。 「そうかもね」
「じゃあ、シスターやマスターは?」
ニャーァ。 「見えてたんじゃない」
「なんで?」
ニャーァ。 「清浄だから」
桜の季節が終わり、あっという間に雨の時期がやってきた。マキノさんの体調はずいぶん良くなったが、雨が降ると足に痛みが出るという。公園で会う回数はめっきり減ってしまった。心配だったが、時々耳房塞が教えに来てくれた。
この日も雨になった。僕はアカネたちが住むアパートへ、二人に会いに行った。アカネから報告があると、三日前、久しぶりに公園で顔を合わせたマキノさんに誘われたからだ。
マキノさんの部屋のインターフォンを押した僕を、アカネが出迎えた。
「いらっしゃい。どうぞ」
アカネは体を斜めに引いて、僕を中へ通してくれた。
「お邪魔します。おじいさんの具合どう?」
「ピンピンしてるわ」
「ピンピンなんてしとらんだろ。足が痛い」
畳の上に座っているマキノさんが、左足の膝をさすりながら言った。
「痛いのはちょっとだけでしょ」
「ちょっとだろうがたくさんだろうが、痛いものは痛い」
僕は途中で買ってきた手土産をアカネに渡した。袋を見たアカネは、笑顔ではしゃいだ。
「このお店の、とってもおいしいのよ。ありがとう」
アカネは紅茶を用意して、僕が持ってきたお菓子も一緒に出してくれた。
最近の出来事と、耳塞について(右耳のことは話題にしなかった)おしゃべりした。
「ほらアカネ、話があるんだろう」
ひと盛り上がりが終わると、マキノさんがアカネを促した。それを受けて、アカネは小さいノートを見せてくれた。ノートの表紙には『母子手帳』の文字と、母親が赤ん坊を抱いた絵が印刷されている。
「あたし、あなたに言われたように、彼を天使だと思って話を聞いたの。そしたら、彼の一言一言にすっごく安心して、感謝の気持ちで聞けるようになった」
アカネはノートを開いて続けた。
「今三ヶ月。あたし、彼と結婚するわ。不安がすべてなくなったわけじゃないけど、この子がとても愛おしいの。あたしの親も同じだったのだと思って、昔のことは忘れることにしたの。あたしは今を生きているから」
両手をおなかの下に当てて優しく撫でるアカネは、ノートの母親の絵以上に母親の顔をしている。その様子を、マキノさんは微笑みながら見ていた。
アカネはノートをバッグにしまい、お菓子の袋の中からビスケットを一枚取り出した。
「あっ」
ビスケットの形を見て、アカネは驚きの声をあげた。
「あたし小さいとき、これどうしても食べられなかったのよね。でも、食べちゃお」
口に入れてポリポリと噛み砕いているビスケットは、猫の形をしていた。
「おいしい」
頬を上げ、目を細めてアカネは笑った。僕たちは、ビスケットと紅茶、三人の、いや四人の時間を楽しんだ。
アカネは彼の言葉を信じた。自分の親のことを吹っ切って、自身が親になることを決めた。マキノさんはこれからも変わらず、アカネの祖父代わりを努めるだろう。僕は……。
ひと月が経ち、三週間、二週間が経った。あと一週間、日一日とその日は迫ってくる。
天使か神か人間か。僕の気持ちはまだ、ふわふわと宙を彷徨い決まらない。変化を望まず、このまま天使でいようか。
それとも……。
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