第47話 苦悩
桜のつぼみはずいぶん大きくなった。盛りにはまだ数日かかりそうだが。僕は耳塞と一緒にアカネを待っていた。約束の時間ぴったりにアカネは公園へやって来た。彼女は桜の花を思わせる、淡いピンク色のカーディガンを羽織っていた。
「ビスケ、今日も元気?」
僕の膝の上の耳塞の頭をひと撫でして、アカネは隣に座った。『ビスケ』と名付けた理由を、僕はあえて訊かなかった。しばらく、二人で耳塞をあやした。
話し出さない僕に、アカネはゆっくりと話しだした。
「あたし、親に捨てられたの。教会のある施設に置き去り。十才までそこにいた。シスターたちはみんな優しくて、愛してくれた。友達もいた」
アカネはひと呼吸おいて、僕に言った。
「驚かないのね」
悲しいことだけど、世の中に親のいない子供はアカネだけじゃない。僕はそう言って、うなずいた。アカネはそうねと返して、話を続けた。
「だけど、所詮それはままごとみたいな作り物だった。似たような境遇の者同士が、慰め合ってるだけよ。本当の愛じゃない。だからあたしは、神様の言葉だけを聞くことにした。シスターたちと同じように、ただ一人の主に仕えるの」
「修道女になるの?」
「そう考えてた。施設がなくなって、近所の老夫婦があたしを引き取ってくれて。とっても感謝してるけど、早く自立したいとずっと考えてた」
耳塞が、僕の膝からアカネの膝に移っていった。彼女は肉球をもてあそびながら話を続けた。
「お店の前の道、真っ直ぐ行くと教会があるの。行ったことある?」
「いや、ない」
「そう。そこで修道女になるはずだったの。だから、高校を卒業してこの街に来て、修行してた」
「でも、ならなかった」
「そう。ならなかった」
「なぜ?」
「……彼に会ったから」
アカネは小さな声で、ぼそりと答えた。
「彼は日曜日に必ず礼拝に来てた。仕事でこの街に引っ越してきたって。親しく話している様子をシスターたちが見ていて、もう一度良く考えてみたらって言われた。それで教会を出て、アパートを借りて、お店で働き始めた」
「それでマキノさんと出会ったんだね」
「そう」
「教会にはもう戻らないの?」
「彼は結婚しようって言ってくれてる。でも、神様の言葉しか聞かないっていう思いが、まだあたしの中では打ち勝ってるの」
「じゃあ、戻るの?」
「……」
「悩んでいるんだね」
アカネは黙ってしまった。
「答えないってことは、結婚してもいいとも思ってるんだよね?」
膝の上の耳塞ぐから視線を上げないアカネが、苦悩の表情をしていると容易に想像できた。そんな彼女が痛々しかった。さらに苦悩させるだろうと思ったが、僕は続けた。
「ねえ、本当に神様を信じてる?」
アカネはうつむいたまま小さく答えた。
「そうね。でもあたし、天使に会ったのよ」
ドキリとした。僕だとは気付かないでくれと、心の中で願った。
天使の話を逸らそうと、僕は話を続けた。
「この猫と同じだね。片方の耳を塞がれて、一方のことしか聞かないんだ」
「何のこと?」
「え? この猫だよ。右の耳が……あっ!」
アカネの手元を見て驚いた。彼女の指は、右の耳があるべきところの空間を触っている。耳塞は安心しきった様子で、アカネに身を委ねている。
まさか、そう見えるのは僕だけ?
「瞳は? ビスケの瞳の色は何色?」
「今度は瞳の色? 何言ってるの?」
アカネは耳を撫でていた指先を耳塞の額に当て、皮膚を少し持ち上げて瞳を開かせた。耳塞は嫌がりもせず、自分から頭を持ち上げてアカネを見た。
「黒か……茶色かな。何でそんなこと訊くの?」
アカネには耳塞の姿が、ごく普通の猫に見えている。
「あはは、なんだ、引っかからなかった」
「何よ、あたしを何か騙すつもりだったの? ばちが当たるわよ」
「ごめん、ごめん」
僕はおどけてみせて、その場を凌いだ。
「ほんとに天使に会ったのよ。施設にいたとき。一緒におやつを食べて、お祈りをして。教会に飾ってあった絵の天使にそっくりで。そうよ、あなたに似てる」
アカネの言葉に、僕は安心した。彼女は二十年近く経った月日を、ちゃんと理解している。僕がその時の天使だとは言わなかった。同じ人物が、同じ容姿で現れるわけがないと、常識的に受け止めているのだ。僕はそれを利用した。
「僕が天使のはずないよ。そんな清い心、僕は持ってないから」
「そう? そうね、あのときの天使さんも、あたしの気持ちを踏みにじらないように、きっと合わせてくれたのよね」
ここぞと、僕はまた話を変えた。
「彼はどんな人?」
「誠実で優しい。ちょっと優柔不断かな。でも、さっきのあなたみたいにあたしを騙そうとしたりしないわ」
「ホントごめん。ねえ、こんなふうに考えたらどう? その彼こそが、神様が遣わした天使だって。彼の言葉こそが、神の言葉だって」
アカネの瞳がまた、あのときの少女の瞳に戻った。同時に、アカネのバッグの中の携帯電話がなった。
二つ折りの携帯電話を開き、アカネは相手を確認した。
「彼からメール。急な仕事で日本に帰ってきたって。空港の近くのホテルにいるから、会いたいって」
「行きなよ。彼の言葉をちゃんと聞いてごらん」
「そうね、そうする」
アカネは素直に答えた。携帯電話を折りたたんでバッグにしまい、耳塞を僕に渡して、彼のもとへと向かっていった。ここへ来た時よりも、ずっとずっと軽やかな足取りで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます