第46話 浄化
どこでくっついてきたのか、左腕に気配がくっついている。部屋の縮尺模型に、これでもう一つ「玉」ができるだろうか。今はがむしゃらに「玉」を集める必要がないから、あまり街の巡回をしなくなった。昼間は公園と部屋の行き来が専らで、夜は高い空を翔ぶだけだった。
マキノさんと別れたあと、僕は公園へ戻った。耳塞とゆっくり、話ができるかもしれないと思ったからだ。案の定、耳塞はさっきと同じベンチに座っていた。
「やあ」
ニャーァ。 「おかえり」
「アカネに会ったよ」
ニャーァ。 「すぐにわかった?」
「うん、そうだね」
ニャーァ。 「おじいさんは?」
「え?」
ニャーァ。 「前に会ってるよ」
「いつ?」
ニャーァ。 「短尾」
父の事故死、短尾、カノウ先生が治療していた、傷ついた猫たち。罪人。
そういうことか……。
マキノさんはあのときの少年だ。『仕立て直し承ります』と書かれた古びた木板の上にあった表札は、そう、確かに『マキノ』だった。
「短尾を知ってるの?」
耳塞に訊いてみた。
ニャーァ。 「知ってる」
「半鼻は?」
ニャーァ。 「知ってる」
「無種も、三足も、舌切も、片目も?」
ニャーァ。 「みんな知ってる」
「なぜ?」
ニャーァ。 「いつも一緒」
「一緒?」
ニャーァ。 「そう、一緒」
神様は言っていた。『人間の心を浄化するために、僕が猫を創りだした』と。耳塞が言う。『傷ついた猫たちは、いつも僕と一緒にいる』と。目の前にいる耳塞は短尾であり、半鼻でもあり、半鼻でもある。つまり、七匹全部が耳塞だということ。
「ねえ、全部教えてくれない?」
ニャーァ。 「いいよ」
耳塞が言うには、マキノさんは日雇いの仕事を転々としながら、住むところも頻繁に変えてきた。四年前にこの街へ移ってきて二年間働いたが、今は仕事を一切辞め、これまでの蓄えでなんとか生活しているということだった。
一方アカネは、十歳のとき街の開発で施設を取り壊されてしまった。近くに住む老夫婦に引き取られたが、高校卒業と同時にその家を出てこの街に引っ越してきた。それがやはり四年前のこと。
二人は同じアパートに住んでいて、よく顔を合わせた。お互い一人であることがわかると自然と助け合う気持ちが湧き、今では本当の祖父と孫娘と思えるくらいに親しくなった。それは、アカネの店でのやり取りでもよくわかる。
マキノさんの言っていた『将来の旦那』とはアカネの高校時代の先輩で、一年ほど前にこの街で再会したという。だけどアカネは結婚しない、家族なんて要らないと言っているらしい。
施設長のシスターが言っていた。
『アカネが言うのよ。私は結婚なんてしない、子供も要らないって。あんな小さな子がそんなこと言うなんてね。私たちシスターが、神に仕える者として結婚しないのとは意味が違うもの。哀れよね』
アカネは今でも、自分を捨てた両親を恨んでいるのだろうか。彼女の親にも何か事情があったのだろうが、もうそれを知ることはできない。頑なに家族を作ることを拒否する思いを、なんとか解いてあげたいと思った。
桜前線がこの街にもやって来た。冬の間にマキノさんは体調を崩し、公園で会うことも少なくなった。この間アカネに関して事が進まなかったのは、アカネの彼が仕事で海外へ行っているからだ。耳塞にも、今アカネを刺激するのは良くないと言われた。
カランコロン
僕は、アカネの店の扉の鐘を鳴らした。
「いらっしゃい」
「おはよう。おじいさんの具合どう?」
「うん、もうだいぶいいわ」
店は空いており、僕は手前の二人席に座った。この半年の間で、二十回近くここでモーニングを食べた。ホットサンドはとても美味しいのだが、僕には量が物足りなかった。なので、やっぱりモーニングセットを注文した。
水と、小さい紙コップを差し出しながら、アカネは僕の前の席に座った。
「あたしね、ずっと考えてたんだけど、前にあなたに会ったことがあると思うのよ……」
新しいコーヒー豆の試飲をしてほしいと勧めにきたアカネに言われて、僕はドキリとした。彼女の瞳が左上に動いている。
「い、いつ頃の話?」
僕は恐る恐る、アカネに訊いた。
「それが、いつだったかは思い出せないの」
「勘違いじゃない? 僕は君を知らなかったよ」
僕は嘘をついた。
「そうよねえ。こんなイケメン、一度会ったら忘れないもの」
「イケメンかどうかはわからないけど……」
アカネは席を立たず、僕が新しい豆の味をどう評価するか待っている。僕は紙コップのコーヒーを一口すすった。
「うん、おいしいよ」
「そう、じゃあ多めに仕入れてみようかな。ねっ」
アカネは、カウンターの男性に向かって言った。男性は無言で、首を縦に振っただけだった。
「君の彼もイケメンなんでしょ?」
この街に居られるのも残り少ないし、僕の話をそらす目的と、アカネの本心を知りたくて訊いてみた。すると、途端にアカネの顔色が変わった。
「その話はしないでって、前にもそう言ったでしょ」
「そうだけど、おじいさん、心配してるんじゃない?」
アカネは何も答えなかった。それでも席は立たず、紙コップをじっと見つめていた。
「そうだね。僕も前に、君に会ってる気がする」
アカネの大きな瞳が、真っ直ぐに僕を見つめた。
『天使?』
そう訊いてきたときと、まったく同じ瞳だった。
僕も真っ直ぐにアカネを見つめ返し、言った。
「君のこと教えてくれない? いやじゃなければ、だけど。誰かに話すと楽になるって言うじゃない」
アカネはまた紙コップに視線を戻した。しばらくして、静かに答えた。
「今はだめ。明日お店の定休日だから、午後の二時に公園で待ってて」
拍子抜けするほどあっさりと、アカネは僕の提案に応じてくれた。
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