第36話 表札

 坂を登りきると、広い平地になった。見た目がほとんど同じ家々が、左手にずらりと並んでいる。右手には頑丈なガードレールが道なりに沿って設置され、その向こう側は崖になっていた。

 思いの外急な坂だった。僕は上がった息を抑えるために途中で足と止め、ガードレールから顔を出してみた。さっきまでいたドッグランが眼下に見えた。二匹の大型犬と五匹の小型犬が追いかけっこをしている。リリーちゃんママとレオンちゃんママに他の飼い主仲間も加わって、おしゃべりの輪は大きくなっていた。

 ドッグランの向こう、坂の反対側には高層マンションが六棟そびえている。右から二棟目に、僕の部屋がある。左下を見ると鳥居があって、参道の左右に銀杏並木が植えられている。逆三角形の青い葉は、そろそろ色を変える時期だ。

 新年には人々がこぞって出向くのだろうが、あそこにも、僕の知る神はいない。


 僕は道に戻り『ソウダ』という表札がないかと、一軒一軒確認していった。どの家にも洒落た門と小さな庭、広めの駐車場がある。ここでの生活には車と、電動自転車が必要だと思った。ランドセルの男の子は歩き慣れているのだろう。僕はまだ、息が整っていない。

 横一列に並んだ家は全部で十二軒あったが、その中に『ソウダ』の表札はなかった。奥にも家があるのかと通り過ぎて進んでみると道は徐々に細くなり、舗装がなくなった。ついには行き止まり、その先は雑草だらけの獣道に変わってしまった。

 僕は引き返し、今度は右を向きながらもう一度、表札を確認していった。やはり『ソウダ』の名字はない。レオンちゃんママが名字を言い間違えたのだろうか。それとも僕が聞き間違えたのだろうか。それにしても、似たような名前すらない。

 誰かに訪ねたくても、人っ子一人いない。坂から三軒目の家の前で、僕はふと違和感を覚えた。その家の表札は木製で、『イチキ』と彫られ、文字は黒く塗られている。駐車場には白いワゴン車が停まっていた。


 山を削って作った坂道も家の前の道も、ワゴン車がすれ違うのに充分な広さがある。気にして見てみると、どの家の車も大きめだ。スーパーや日用品の雑貨店から離れたこの地域では、定期的にまとめ買いに出かけるしかない。そのためにも、大きい車が必要なのだろう。

 気になった『イチキ』さんの家は、庭に面した部屋の窓のカーテンがしっかりと閉じられている。芝生は刈ってあるが、そのまわりには、存在を主張するかのように雑草がびっしりと生えている。空気の抜けたオレンジ色のビニールボールが、庭の隅の雑草の中に置き去りにされ、エアコンの室外機の脇には錆び付いた三輪車が倒れている。お世辞にも、手入れが行き届いているとは言えない。なんだかこの家全体が、ボールと同じに置き去りにされているように見えた。

 とても気になるのだが、ここは目的の家ではない。残り二軒の表札を確認して、僕は坂を下りることにした。


 ミャーン。


 背後で猫が鳴いた。振り向くと、純白の猫がいた。置き去りにされた家の前で、きちんと座って僕を見ている。橙色の瞳の片方だけが、丸い光を放っていた。空気の抜けたボールと同じ、オレンジ色だ。

 僕は猫に近づいた。光を放たない左目のまぶたには縦に傷があり、家のカーテンと同じくしっかりと閉じられていた。


 ミャーン。 「ここだよ」


 猫がしゃべった。けど僕は驚かない。だって天使だから。


「でも、ここは『イチキ』さんだよ」


 ミャーン。 「そうだね」


 そうだね? ソウダ、ね? 僕はちょっと混乱した。眉間にシワでも寄せていたのか、僕の顔を見て、猫がくすりと笑ったように見えた。

 気を取り直し、僕は猫との会話を続けた。


「僕が探しているのはソウダという家だよ」


 ミャーン。 「ここ」


「ここに住んでるの?」


 ミャーン。 「そうだよ」


「ランドセルの男の子は?」


 ミャーン。 「中」


「誰もいないみたいだけど?」


 閉じられたカーテンを、僕はもう一度見た。


 ミャーン。 「みんないるよ」


「みんな?」


 ミャーン。 「ショウゴも」


「ショウゴ?」


 ミャーン。 「ソウダショウゴ」


 男の子の名前だろう。


 エンジン音が聞こえる。坂を車が上ってきたようだ。僕は駐車場が空いている家が何軒かあったのを思い出した。家の方へ寄って、車のために道をあけた。猫も僕の足元についてきた。車は坂を上りきったところで、少しスピードを上げた。一瞬だったが、車内にマルチーズが二匹いるのが窓越しに見えた。

 その車が通り過ぎると、足元にいるはずの猫はいなくなっていた。あたりを見回したがどこにもいない。僕は小さくため息をついた。


   まだ聞きたいことがあったのに……。


「その目、誰かにやられたの?」


 猫の答えはわかっている。返ってこないのもわかっているが、声に出して言ってみた。答えはきっと「忘れた」だ。


   そのうちまた会えるだろう。


 僕は猫を『片瞳』と呼ぶことにした。

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