片瞳の章

第35話 飼主

 八ヶ所目の街の部屋、ここはウォーターフロントの高層マンション。部屋のほとんどを占める縮尺模型の、三分の一は海だ。埋め立て地に建つマンションは運良く、他の地方で起きた未曾有の大きな揺れにも耐えてくれた。近辺で多少の液状化は起きたようだが、今は補修も終わり、人々は平穏な日常に戻っている。


 海の反対側は街よりも町と言っていいほどのどかで、僕が初めて下界に降ろされた頃を思い出す。かつては名のある人物の城があったそうだ。模型の南側が海で、周りは近代的な街並だ。北側は小高い山と神社の多い古風な町だ。どことなく異国情緒も漂わせ、陽気な人が多いように感じる。観光や海水浴に方々から人が集まり、賑やかさと静閑さのどちらも持ち合わせている街だ。

 北側の一角にあるい高級住宅街では、連日、品のいい主婦たちが飼い犬の散歩に集まる。大型犬をドッグランで遊ばせ、散歩だけでは足りない運動量を補っている。僕も僕自身の散歩を装い、度々訪れた。そこで、犬たちの駆け回る姿を一人でぼんやりと眺めている男の子を見かけた。

 男の子は学校帰りにランドセルを背負ったまま一時間以上も眺めていて、やがてとぼとぼとドッグランの傍らにある坂道を登っていった。犬を飼いたいけれど飼えないから、せめてここで触れ合いを求めているのだろうか。それにしては、駆け寄ってくる犬を撫でるでもなく、抱かせてもらうでもなく、いつもただ眺めているだけだ。

 僕はといえば、これまで猫とは話をしてきたが、犬の言葉は理解できない。「ワンワン」「キャンキャン」という鳴き声は、鳴き声としてしか聞こえなかった。ひょっとして、傷ついた犬となら話ができるのかもしれない。


「こんにちは」

 シーズー犬を抱いた、四十代半ばくらいの女性に声をかけられた。

「あなたはワンちゃん、お連れじゃないの?」

「ええ、僕は飼ってないんです。でも動物は好きなので、見させてもらっています」

「そう。よろしかったらこの子、抱いてみる?」

 僕は一瞬戸惑った。だが好意を無にするのも失礼と思い、抱かせてもらった。そして、お決まりの文句を返した。

「お名前は?」

「ふふ、リリーちゃんよ」

 犬を飼う人の共通の呼び方。オスでもメスでも『ちゃん』付けする。

「そうですか」

 リリーは抱き方が悪いのか、僕の腕の中では落ち着かない。フーフーと鼻息を荒くして手足をバタバタつかせるので、すぐに飼い主に返した。

「ありがとうございました。可愛いですね」

 最後にまた、お決まりの文句を付け加えた。

 飼い主の腕に戻ったリリーは、嘘のように落ち着いた。傷ついた猫たちだったら、きっと「こう抱いて」と言っただろう。リリーがどうして欲しかったのかは、全然わからなかった。

「あの、さっきまでそこにいた、ランドセルの男の子のことをご存知ですか?」

 僕はリリーの飼い主に訊いてみた。

「あの子とお知り合い?」


   ヤバイ。不審者に思われたか……。


 最近じゃ、知らない人に話しかけられても付いていってはいけない、むやみに名前や住所を言ってはいけない。そんな教育が子供たちにされている。

「いえ、よくここで見かけるものですから。犬が好きなんでしょうか」

「そういうわけではないのじゃないかしら。時間つぶししてるっていうか……」

「リリーちゃんママ」

 彼女の言葉を遮るように、コーギー犬を連れた同年代の女性が声をかけてきた。

「あら、レオンちゃんママ。久しぶり。どうしてたの? 最近見ないから心配してたのよ」

「この子の体調が悪くて、しばらく入院させてたの」

「どこかお悪いの?」

「ちょっと食べ過ぎですって」

「あら、やだあ」

 リリーちゃんママは僕のことなどすっかり忘れ、レオンちゃんママと行ってしまった。

 ずいぶんと平和な会話だ。食べ過ぎで入院なんて、カロウ先生が聞いたらどう思うだろう。それにしても、小さな子供のいる主婦たちが、お互いを子供の名前にママを付けて呼びあうのは知っていたが、ペットの飼い主同士もそうなのかと、改めて衝撃を受けた。

 大きな自然災害が起こったのは、まだほんの半年前だ。その余韻が消えてしまったかのような平和な会話も、衝撃的といえば衝撃的だ。考えようによっては、良いことなのだろうけど。


「ソウダさんとこのお子さん、また来てたわね」

 レオンちゃんママが言ったその名前を、僕は聞き逃さなかった。

 妙にランドセルの男の子が気になる。小学一年生か、二年生か。セイヤよりずっと小さい子が『時間つぶし』とはどういうことなのだろうか。僕は坂道を登っていった。

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