第37話 深夜

 深夜の巡回は羽を広げて、もう一度ドッグランへやってきた。さすがにこんな真夜中に犬を遊ばせている飼い主はいない。そもそも、時間になれば入口に鍵が掛けられるから、中に入るのは無理なのだが。本心を言えば、坂の上まで一気に翔んで行きたい気持ちなんだ。だけど、昼間の衝撃にまだ、僕の心は落ち着いていない。

 巡回に出たものの、受けた衝撃の真偽を確かめる勇気も出ない。もう五回も、同じところを旋回している。かといって、このまま帰るわけにもいかないと思う。万が一にも目撃されないよう、誰もいないドッグランの柵の外に慎重に降りた。


 昼間、車とすれ違ったあと、片瞳がいなくなってしまったために『ソウダ』『イチキ』と名字が違う理由を聞けなかった。片瞳は家の中にランドセルの男の子、ショウゴがいると言っていた。ならば、カーテンが開かないかと期待してしばらく見ていた。思いが通じたのか、ほんのわずかだがカーテンが開いた。

 その瞬間、飼い主が犬を『ちゃん』付けで呼ぶと知ったときの何倍もの大きな衝撃を受けた。都会と自然が見事に融合した舌切と出会ったあの街で、毎朝食べていたおいしいトーストの味を忘れてしまうほどの衝撃だ。

 すき間から見えた顔は見知った顔だったのだ。暗く、怯えたような表情。やつれた頬で、眉間にしわを寄せていた。八年分の年を取り、爽やかな春風のような印象はすっかり失っていた。しかし間違いなく、あのパン屋で出会って、別れた彼女だった。


 ミャーン。 「犬、嫌い」


 突然の鳴き声と、足元の感触に僕は肝をつぶした。そして次の瞬間には、安心した。片瞳だ。どこから出てきたのか、片瞳は僕の足にまとわりついていた。白い毛並みが月明かりに輝いている。

 最初の驚きで片瞳の発した言葉の意味がわからなかったが、少し経って思い出した。


「ああ、昼間の車の」


 ミャーン。 「追いかけられた」


「その目、あの犬たちにやられたの?」


 ミャーン。 「違う」


「じゃあ、誰に?」


 ミャーン。 「忘れた」


   やっぱり……。


「ソウダショウゴだっけ?」


 ミャーン。 「そう」


 きっと片瞳は、彼女のことも知っているだろう。


「あの家に住んでいるの?」


 ミャーン。 「今はね」


「今は?」


 ミャーン。 「あっち」


 片瞳はイチキ家とは真反対の方角に顔を向け、そびえ立つマンションを示した。男の子の本当の家は、僕の部屋の近くにあるというのだ。そんなに近くにいたなんてと思ったが、六棟のうちのどこかを確かめる必要はない。


 片瞳が言うには、ショウゴの両親は九年くらい前、この街に越してきた。すでにお腹の中には子供がいて、半年後にショウゴが生まれた。『イチキ』の家は、彼女の両親の家なのだそうだ。だから名字が違う。

 僕は頭の中で素早く計算した。パン屋で別れたとき、彼女のお腹には子供がいた。彼女は、実家の近くに引っ越すと言っていた。そして出産、ショウゴの歳もぴたりと合っている。


 さらに片瞳が教えてくれた。

 ショウゴが生まれて一年ほど経ったころ、夫が海外赴任でいなくなった。時を同じくして彼女の父親が勤めていた工場での事故で他界した。夫は仕事の都合がつかず、葬儀には参列できなかった。喪が明ける直前に一度帰ってきたが、すぐにまた仕事で旅立ってしまった。

 三年ほどして一時帰国したがそれきりで、もう四年以上親子は顔を合わせていない。夫が帰って来ない理由は様々あるだろうが、一番の理由として、彼女の母親が関係しているだろうということだった。


 彼女の母親は今、寝たきりの状態でいる。彼女の父親が亡くなったことで気力を失い、二年後に自身も病気で倒れた。幸い一命は取り留めたが、寝たきりになってしまった。治療やリハビリが必要だったが、夫と暮らした家に居たいと言って無理矢理退院したそうだ。 

 母親の介護とショウゴの育児を、彼女はたった一人でこなしていた。しかし、それは物理的に所詮無理な話で、彼女気力もまた、徐々に失われていった。


 ミャーン。 「ネグレクト」


 この単語は記憶に新しい。自己防衛のために、彼女は我が子を遠ざけてしまったのだった。

 彼女は自分の心身を保つため、まだ幼い息子のショウゴと病気の母親、二者択一で母親を選んだ。保育園でも学校でも行事には参加せず、母親たちとの付き合いもしない。食事には手をかけず、一週間同じ服を着せていることもしょっちゅうのこと。

 そう話している間の片瞳の右目は光を失っていた。左目と同じく、まぶたの中でただの球体になってしまいそうだった。


 そんな家庭環境だからか、ショウゴには友達がいない。家に帰れば、起き上がることも話すこともできない祖母と、疲れきってぐったりとした母親が待っているだけ。だから、学校が終わると、帰り道にあるドッグランをただただ眺めて時間を潰しているのだ。

 ショウゴの母親は片瞳と同じだ。左目に映るショウゴは無いものとされている。ショウゴが哀れだった。片瞳も。もちろん、彼女も。爽やかな春の風に揺らめいていたうすいベージュ色のスカートは、ボロ雑巾のようにすり切れてしまってったのだろう。『久しぶりに再会した姉弟』というシチュエーションは、永遠に夢と消えた。

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