第33話 独言

 舌切との生活はそのままひと月ほど続いた。僕に合わせてカロリー多めの食事をし、舌切は人並み、いや、猫並みの肉付きになった。久しぶりに、夕食を食べに【リレーション】へ行くことにした。舌切は、看板の陰で待っていると言った。


 カランコロン


 扉の鐘の音が心地よかった。

「やあ、久しぶりだね」

 マスターの変わらぬ笑顔に迎えられ、僕はいつものカウンター席に座った。

「あの猫も来てますよ」

「え、無事だったんだ。よかったあ。姿見せないから、ひょっとしてと思ってたんだ。何か作ってやらなきゃ」

「僕と暮らしてました」

 僕はマスターの見開いたまん丸い瞳に、しばらく見つめられていた。

「猫らしくなりましたよ」

 マスターは半分涙目で、そうかそうかと言いながら食材を切り、フードプロセッサーのスイッチを入れた。


「こんばんは」

 挨拶の言葉と同時にカランコロンと鐘が鳴った。ハルカだった。すれ違いに若いウエイターが舌切の皿を持って外へ出た。

 ハルカはカウンターに座り、シャンディ・ガフを注文した。彼女は一杯目を、三口で飲み干し、二杯目を注文した。待っている間、ナッツをカリコリと音を立てて噛み砕いた。

「マスター、お子さん元気ですか?」

 二杯目のシャンディ・ガフのビールを注いでいるマスターに、ハルカが尋ねた。

「元気だよ。すっごくね」

「マスターも、学校の保護者会とか行かれるんですか?」

「だいたいは奥さんだけど、授業参観と運動会は行くよ」

「そうよね、普通はそうよね、来るわよね」

 ハルカのその言葉は、半分独り言だった。

「学区が違うと、こうも違うものなのかしら。マスターのお子さんが通っている学校に移りたいな」

「奥さんが言うには、ほとんど来ないっていう親御さんもいるみたいだよ」

「そう、どこもおなじなのかなあ」

 ハルカの頬はほんのり赤らみ、瞳が潤んでいた。一杯目のアルコールがまわったというより、仕事で何かあって、気持ちが高揚しているように見えた。

「ところで、前にここで働かせてくれって言ってた青年どうした?」

「ああ、残っていた同期が勝手に辞めちゃったみたい。彼はまだ辞めずに仕事続けてる。負けてたまるかって、この間息巻いてた」

「それはよかった」

「はあー、私も続けるかなあ」

「それがいいと思うよ」

マスターのその言葉を、僕に鐘の音と同じに心地良く感じた。ハルカにはどう届いただろうか。


 二杯目を飲み終えると、ハルカは帰っていった。

「学校の先生もたいへんですね」

 ハルカのグラスを片づけるマスターに、僕は声をかけた。

「これが世代の違いなのかな」

 誰に言うともなく、マスターはつぶやいた。

「僕が会社に勤め始めたころはさ、上司だろうが部下であろうが、言うべきことはきちんと言い合って仕事してた気がするんだよね」

「はあ」

 僕は相槌を打った。

「抑えつけるとか、たてつくってことじゃなくて、仕事が成功するようにさ、意見を言い合うっていう。聞くほうもちゃんと聞いて、受け止めてたんだと思う」

「はあ」

 僕は人間社会で働いたことがないから、そう返すしかなかった。

「こういう時代になってしまったから、いや、してしまったから、かな。僕らの世代が。自分の気持ちや本音を、言えない時代にしてしまったんだろうね。みんなして、どこかで道を間違えたのさ」

「はあ」

「あの猫みたいに舌を失って、上手に鳴けない。聞くほうの相手は、言葉という栄養が摂れないんだよね。それじゃ仕事も上手くいくはずないよ」

「そうですね」

「学校も同じ。子供も親も教師も、言いたいことは山ほどあるのに言えないんだね」

「マスターのところは良いお父さん、お母さんなんですね」

「どうかな」

 マスターは頭を掻いた。

「学校にとって問題となる親にも、その親なりの言い分があるだろうし。一つの側面からだけじゃ決められないよ」

「なるほど」


 僕も二杯のレッド・イヤーを飲み、大盛りのカレーを食べて店を出た。舌切と一緒に帰ろうと思っていたが、待っているはずの舌切はどこにもいなかった。からっぽになった皿が、看板の陰に残っているだけだった。腹ごなしに散歩にでも出たかと思いしばらく待ったが、舌切は戻ってこなかった。



 僕は人目が無いことを確かめ、建物の陰に隠れて羽を広げた。そして、ゆっくりと空へ翔び立った。かなりの高さまで上がり、街の上空を旋回した。弱くなった「玉」の気配はもう、僕のところまで届かなくなっていた。


   やっぱりもう無理だ……。


 適当に地上に降りようとしたが、羽がそれを許さない。Uターンして【リレーション】近くの幹線道路に僕を導いた。

 ハルカが見えた。道路側を向いてガードレールに腰をかけ、舌切をひざに乗せている。撫でてくれている彼女の右手首のあたりを、舌切は先の無い舌で舐めていた。

「おまえはそんな舌だから、上手に鳴けないんだね」


 ムーグ。


「鳴きたいように鳴けなくて苦しくない? 私は、言いたいこと言えなくて苦しい」


 ハルカは顔を上げて右を向いた。二つの車のライトが光った。空車の赤い字が見えると、彼女は立ち上がって右手を上げ、左手で舌切を地面に下ろした。それから背筋を伸ばし、強く言った。

「マスターに言った通り、もう少し頑張ってみるよ」

 目の前に止まったタクシーに乗り込み、彼女は行き先を告げた。車はすぐに右折して、見えなくなった。

 舌切は空を見上げ、僕に向かって言った。


ムーグ。 「もう大丈夫」


学校の校庭で動き回る三つのとげとげの「玉」は、徐々に棘が丸くなっていった。動きも鈍くはなったが、その街での生活が終わるまで消えなかった。

マスターの「玉」は、僕の体内にあった。そして、彼に呼ばれた。

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