第32話 学校
その夜、それだけで舌切と別れるのは忍びない気がした。もしもまともな食事が毎日できないのなら、僕が何とかしてあげてもいいとさえ思った。僕はまた、舌切の背中に問いかけた。
「どこへ行くの?」
ムーグ。 「学校」
「学校……そこが君のねぐら?」
ムーグ。 「ハルカの」
「ハルカ? ああ、さっきの先生」
僕は、舌切のあとに付いていった。特に嫌がっていないようだったし、「玉」の気配を探す巡回に、目的地があるのは好都合だった。僕は舌切の速度に合わせ、歩みを進めた。
学校まではかなりの距離があった。ビジネス街を抜け、東側の住宅街の公園を抜けて、さらに歩いた。その間、どこにも「玉」の気配は感じられなかった。僕が人であったなら、車や電車を使う距離だ。舌切はいつもこんなふうに、長い距離を移動しているのだろうか。思うように食べられない上にこれだけ歩けば、痩せ細ってしまうのも当然だと思った。
舌切の足が止まった。
ムーグ。 「着いた」
夜の学校は昼間のそれとは別のものに見える。コンクリートの薄い灰色は、闇にその色を濃くしている。門に閉ざされた、人のいない教育の場所は飾り気もなく、ただの箱のように見えた。
それだけではなく、箱の中には誰もいないはずなのに何かの気配を感じた。異様な気配だ。重苦しい圧迫感と強靭な威圧感で、思うように体が動かない。天使がそんなものに怯えるのはおかしいと思われるだろうが、見たこともない、感じたこともないものは天使だってやっぱり怖いさ。
こんなところへ、舌切を残しておいてはいけない気がした。
「ねえ、僕の部屋に来ない?」
ムーグ。 「なんで?」
「なんでって……」
僕は言葉に詰まった。
「なんでって、明日の朝またお腹空くでしょ。朝食一緒に食べようよ」
校門に片足をかけていた舌切の動きが止まった。少し間を置いてから足を下ろし、振り向いて舌切は言った。
ムーグ。 「それはいいね」
僕は舌切を抱いてやった。肋骨がゴツゴツと指に当たる。よく見れば、背中にも一本の筋が浮き出ている。重さも感じられなかった。綿が詰まっただけのぬいぐるみより軽いのじゃないかと思えた。
舌切は僕に抱かれると、すぐに眠ってしまった。翔んで帰ればすぐだが、起こしてはかわいそうと思い、そのまま歩いた。右へ左へ、歩調に合わせて舌切も揺れた。まるで揺りかごで眠る赤ん坊のように、静かな寝息を立てていた。
部屋に着いたのは午前三時過ぎだった。縮尺模型のまわりにあるわずかなすき間に、バスタオルで寝床を作ってやった。その間も、舌切はずっと眠ったままだった。部屋のドアを開けて体が大きく揺れたときも、一度テーブルの上に降ろしたときも。テーブルの上には【リレーション】のマスターが使っているのと同じフードプロセッサーが置いてあった。僕は天井を見上げ、彼の都合に感謝した。
僕も舌切の隣で丸まった。睡魔はすぐに襲ってきた。舌切の寝息を聞きながら、短い眠りに就いた。
きゅるる。
目覚まし時計が鳴る前に、お腹の鳴る音で目が覚めた。バスタオルの寝床が
「おはよう。早いね」
ムーグ。 「できてる」
僕も舌切の背後から同じようにのぞき込んでみた。すると、昨夜行った学校の校庭に三個の「玉」があった。それらは地を這うように動き回り、円を描いていた。
「なんか変な形だね。しかも、三つも」
ムーグ。 「うん、三つも」
舌切を部屋へ連れてきてよかったと思った。異形なその「玉」たちは、どれも鋭い棘を出していた。あの異様な気配は気のせいではなかったと確信した。もしあのまま学校へ置いてきていたら、今ごろ舌切はどうなっていたか。考えたら、少し震えた。
きゅるるる。
またおなかが鳴った。
「朝食にしよう」
ムーグ。 「やった」
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