第31話 仕事
店内ではマスターを含めて五人のウェイターが働いている。一人がカウンターの中で洗い物をし、マスターと一人がカクテルや料理を作っている。残りの二人がフロアーで注文を受け、料理を運んだり空いた皿を下げてくる。ほとんどカウンターの中にいるマスターも、店が混んでくるとフロアーに出てくる。
空いた皿を持ってカウンターに戻ろうとしているマスターに、会社を辞めると言った男子が声をかけた。
「マスターって脱サラしてこの店始めたんですよね。俺のこと雇ってもらえませんか?」
マスターは足を止めて言った。
「もう少し今の会社で頑張ってみたら? ここも不況の煽りでね。従業員増やせるほど儲かってはいないから」
マスターはいつもの笑顔で、やんわりと断った。僕の脇を通ってカウンターの中へ戻り、下げてきた皿をシンクに沈めた。洗い物係のウェイターが変わろうとしたが、マスターは左手を上げてそれを制止し、濡れた手をしたまま僕のほうに近づいてきて、そっと耳打ちした。
「若いアルバイトさんを入れたことあるんだけどね、すぐ辞めちゃうんだよ。ふてくされて。ちょっと指摘しただけなのにね」
洗い物に戻ったマスターの口は、まだ動いていた。
「彼の受けたパワハラがどこまでのものかはわからないけど、苦しくても続けることが大事なんだよね……。ま、私もやめたクチだから、偉そうなこと言えないけど」
悲し気な表情で手を動かすマスターを見て、僕は思った。前の仕事を辞めたことを後悔しているのだろうかと。同時に、どんなに経営が苦しくなっても、マスターはこの店は辞めないだろうと。
「ところで、ハルカは最近どうなのよ」
若者たちの会話は続いた。
「どうもこうもないわよ!」
それまで
「何かあったの?」
もう一人の女子が尋ねた。
「クラスの男子、あの問題児がまたやらかしたのよ!」
「荒れてますねえ、ハルカさん。話振ったの失敗だったんじゃない?」
ハルカの向かいの男子が冷やかした。ハルカはその言葉に少しムッとしたようだった。
「親を呼び出したのよ。なのに無視よ。ム・シ」
「いわゆるモンペってやつ?」
「モンペなら何かしら言ってきたりするでしょ。そのほうがまだマシよ。完全に無視。最近じゃ電話にも出ないし、家庭訪問には居留守使うし」
「ある意味すごいね、それ」
「年度替わりの時期に会ったとき、うちは放任主義ですなんて言ってたけど、私に言わせりゃあれはネグレクトよ。ネ・グ・レ・ク・ト」
「ネグレクトって?」
僕も初めて聞く言葉だった。ハルカは続きた。
「ネグレクト、育児放棄。本来は乳幼児の養育をしないってことだけど、まともな食事もさせない、しつけもしない、子供に必要な面倒を見ないって意味ではおんなじよ」
「ふーん」
三人にはピンとこない話のようで、気のない相槌だった。
「だから子供はやりたい放題。ほうきをバット代わりにふりまわして、理科室のビーカーやら実験道具を大量に割ったのよ。年配の先生に向かってはくそばばあ呼ばわりだし、私にもブスだのデブだの」
「それで親を呼び出したけど、無視ってわけ?」
「そういうこと」
「我が『
「見た目とか、人の気持ちとか関係ないの。そういう言葉使って、いきがってるだけ」
「上の先生とか校長先生とか、対応してくれないの?」
「管理職はダメダメ。何かあって上にチクられたら一巻の終わりだもの。みーんな口をつぐんでるわ。愛情が足りないんですね、その辺りを考慮して……って、そればっか。私だってそんなことわかってるわよ」
ハルカは
「できの悪い弟とか、近所の悪ガキって関係ならきっともっと好きになれる。成績も悪くないし、運動会のときなんか率先してクラスをまとめてくれるし。実際助けられる部分もあるのよ。でもね、教育っていう縛りがあると、簡単に物事は進まないのよ」
自分は何もアドバイスできないと思ったのだろう、相手をしていた女子も黙ってしまった。
「あー、ごめんごめん。もう終わり」
ハルカはそこまで一気に喋ると、雰囲気が悪くなったと察したようだ。無理矢理話を変えた。
「ねぇねぇ、それより彼氏元気?」
そのあと、話は四人の恋愛事情へと移っていった。
レッド・イヤーを二杯のみ、僕は夜の巡回のために店を出た。十一時を過ぎていたが、外はネオンで必要以上に明るかった。
ムーグ。
看板の裏で猫が鳴いた。
「やあ、まだいたの」
ムーグ。 「やっと食べ終わった」
猫がしゃべった。けど僕は驚かない。だって天使だから。
猫は前足の毛繕いをしていた。チロリと出した舌の先が、一直線になっていた。僕はしゃがんで目線を低くし、背中を撫でてやった。マスターのいう通り、猫の体はガリガリだった。骨を直接触っているみたいな感触に、僕は少しショックを受けた。
上目遣いに僕を見た猫の瞳は、看板の明かりに、黄色く光っていた。
「この店のマスター、いい人だよね」
ムーグ。 「助かってる」
猫は空になった皿をチラリと見てからお尻を上げ、ゆっくりと歩き出した。僕はその背中に向かって訊いた。
「その舌、誰かにやられたの?」
猫は振り向きもせず、答えた。
ムーグ。 「忘れた」
僕はその猫を『舌切』と名付けた。
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