第30話 若者
同じ街で、さらに五年が経った。そろそろ限界かと感じながらも、レッド・イヤー飲みたさに【リレーション】へは通っていた。行こうと決めた日には夕飯のカロリーを控えめにして、夜の巡回の前に寄る習慣がついていた。一月に二、三度行っていただろうか。なんだかほっとするし、マスターの料理はどれも美味しかったから。
黒地に赤く光る店名の横文字の看板が、その日の夜も光っていた。
扉を押そうとノブに手をかけたとき、看板の陰で何かがもぞもぞと動いている気がした。裏をのぞき込むと、猫がいた。アルミ製の皿の中のものを、口に入れては皿に出し、入れては出しを繰り返していた。少しずつ少しずつ、赤ん坊の離乳食のようなえさを食べていた。痩せ細った、薄墨色の猫だった。
「やあ」
僕は声をかけた。猫は逃げもせず、返事もせず、ふごふごと喉を鳴らしながら、一心不乱に食べていた。
待っていても返事はないだろうと思った僕は、あきらめて店の扉を押した。
「こんばんは。今日は混んでますね」
十数卓のテーブルは満席だった。いかにも週末の夜らしい店内だった。
「やあ。来るかなと思って、空けてあるよ」
マスターはカウンターの隅を指差した。彼は見事に、僕のローテーションを把握している。
「入口に猫がいましたよ」
シェイカーを器用に振ってカクテルを作っているマスターに報告した。
「うん。あいつ、食べてた?」
マスターはシェイカーを傾け、グラスにピンク色の液体を移した。それをウエイターに渡すと、僕の前にコースターとおつまみをセットしてくれた。
「ええ、もう一心不乱に」
「そう、よかった」
「よかった?」
「あいつ、誰かに舌を切られたみたいでね。上手く食べられないんだよ」
「舌を……」
この街でもまた、傷ついた猫が現れた。
僕のためのレッド・イヤーを作りながらマスターは続けた。
「たまにここへ来るんだけど、いつも腹空かせてるみたいでさ。よそで食べ物にありつけないのか、食べられないからなのか、ガリガリだったろ?」
「ええ。野良ですか」
「だろうね。店の残り物をフードプロセッサーで液体状にしてあげるんだけど、何時間もかけて食べるんだよ」
「だから看板の陰に」
「そう。飼ってやりたいとも思うんだけどね、うちの奥さんも働いてるから世話できなくて」
レッド・イヤーをコースターの上に置き、マスターは扉のほうを見た。衛生上、動物を飲食店の中へは入れられない。落ち着いて食べられるよう、人目につかない看板の裏に皿を置いてあげている。マスターは、どこまでも優しい人柄だ。
部屋の縮尺模型には「玉」が三個あった。その中の一つはマスターのものだと確信した。成長が早くて光が他より強い。もうすぐ僕の背丈に届くだろう。早いと言っても、それまでの街での「玉」の成長具合と比べれば、格段に遅いが。
ローストチキンとライス、クラムチャウダーを注文し、僕はそれを食べながら店内を眺めた。カウンターは奥の一席だけがくの字に曲がっていて、体や顔の向きを大きく変えなくても店全体が見渡せる。僕にとって、おあつらえ向きの場所だった。
中央には四人用の木製のテーブルが八卓。カウンターの反対側の奥に、僕が介抱してもらった八人用のソファー席が一卓。カウンターには、この席も含めて七つの椅子が並んでいる。どれも開店時に新調したものではなく、閉店したレストランから安く譲り受けたものだそうだ。シンプルでセンスの良い装飾、落ち着いた雰囲気が人気で、時々結婚式の二次会の予約が入る。貸切になるからと僕に告げるときのマスターは、僕の方が恐縮するくらいに詫びてくれた。
僕の席に一番近いテーブル席を、二十代半ばの男女二人ずつが囲んでいた。話の内容からして、プチ同窓会の雰囲気だった。ひとしきりの思い出話が終わったあと、それぞれの現状を話し始めた。
「俺、会社辞めようかと思っててさあ」
男子の一人が言った。
「辞めてどうするの?」
向かいの席の女子が言った。
「そうだなあ、フリーターかな。同期が次々に辞めてさ。十人入社したうち、残ってるのは俺ともう一人。そいつと、俺らも辞めようかって話してるところ」
「辞める理由は?」
斜め向かいの、もう一人の男子が訊いた。
「なんかさあ、パワハラっていうの? ちょっとでも上司や先輩にたてつくと、あとが恐いのよ」
「それわかる」
さっきの女子が賛同した。彼女は婦人服の販売職をしているらしい。
「店の先輩もさ、私がちょっとでもその人の顧客と話してると、帰ったあとにすっごい目つきで睨んでくるの。ただの世間話なのに、自分の仕事を私に振ってきたり、休憩くれなかったりするのよ。別に顧客奪う気なんて全然ないのにさ」
「げー、ひでぇ」
二人の男子が口を揃えて言った。会社を辞めると言い出した男子の隣の女子は半分
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