舌切の章

第29話 飲酒

 夢を持てないセイヤが住む、三足と出会った街の次、フランスパンの彼女と出会って別れた街は、都会と自然が見事に融合した理想的な街だと言えるだろう。僕は九年、そこで過ごした。模型の東と南側には無機質なビル群が立ち並ぶ商業地で、西と北側には高層マンションの住宅地と広い公園があった。池や川に様々な草木が生息し、住む街としてはうってつけの場所だ。人口も多かった。

 なのに「玉」の気配はとても弱かった。成長も遅く、何年経っても僕の背丈に届かなかった。数も異常に少なかった。唯一北側にできた「玉」が、他を追い越して成長していった。


 カロリー摂取のためだけの食事にならないよう、この街では何軒かの行きつけの店を作った。その中の一つ【リレーション】は、昼間は軽食のカフェ、夜はアルコールを出すバーになった。昼間には、そうだ、一度も行かなかった。

 店内の照明を薄暗くして、テーブルのローソクの灯がきらめく夜のその店は、どことなく教会の雰囲気があった。もちろん、通っていたときにはそんなこと思いもしていなかったが。

 八度目の呼出しから帰ってきた今では、施設長のシスターと【リレーション】のマスターがどこかダブる。

 マスターは七年前(今から数えれば十三年前)四十歳になる年に、この店を開いたそうだ。十六年勤めていた会社で、同期入社の同僚が次々とリストラされた。会社の存続のためとは言え、露骨なやり方に嫌気がさして、依願退職を申し出たという。会社からは引き止められたが、いずれは自分も錆び付いた歯車として取り外されるだろうと危惧の念を抱き、自ら辞めたのだ。

「パパの思う通りにしていいよ」

 奥さんと二人の子供、家族は賛成してくれたという。

 景気低迷のご時世で、不安がなかったわけではないだろう。それでもマスターは、会社の都合で回される歯車の一つになるのではなく、自分で回すこの店を無理してまでも手に入れた。マスターの表情は常に穏やかで、酔っぱらった客への対応はいつでも優しかった。「玉」の気配を感じて店に入ったのだが、きっと彼自身の気配だったのだろう。


 カランコロン


 扉を引くと鳴る鐘の音は、カロウ先生の病院の鐘と同じだった。

「やあ、こんばんは。空いてるよ」

 店の一番奥、カウンターの隅の定位置をマスターは変わらぬ笑顔で示した。

「いつものでいいかい?」

 僕はうなずきながら、僕の席に座った。



 初めてのときもこの席に座った。七度目の呼出しから、三年くらい経っていたと思う。その三年間は違う飲食店に通っていたが、年を取らないことに不審がられるのを恐れて店を変えた。

 メニューを見てもわからないので、お勧めをたずねた。潰したトマトは苦手だが、マスターの説明を聞いて、何とはなしにレッド・アイをたのんだ。そのとき、天使にアルコールは禁物だと知った。炭酸の爽やかな喉ごしと、トマトジュースの甘みと酸味。美味しかった。半量を一気に飲んだ僕は、そのまま床へ倒れ込んでしまった。

 気がつくと、ソファー席に寝かされ、額に冷たいおしぼりが乗っていた。

「ビールの量が多すぎたかな。ごめんね」

 マスターは自分の非とし、僕の体を起こしながら謝ってくれた。

「いえ、僕のほうこそすみません。お酒、初めてだったものですから」

 それ以来、マスターは僕のためにビールをジンジャーエールに代え、試行錯誤の上に絶妙な割合の、ノンアルコールカクテルを作ってくれた。『レッド・イヤー』という名前でメニューにも載せたが、もっとも本家には勝てず、僕のためだけの飲み物となりつつあった。

 どこかの飲料メーカーの商品をコンビニで見つけたとき試しに飲んでみたが、マスターの味にはほど遠いものだった。


 ソファー席から、その後定位置となる席に戻り、食事をしながら店内を見回した。平日の夜の客入りは多くなく、二人から三人のグループが五組いるだけだった。

 ハンバーグサンドの最後の一口を口に入れ、水で流し込んでいると、マスターが小皿を僕の前に出した。

「奥さんと娘が作ってくれたんだ。口直しにどう?」

 小皿には、琥珀色の猫がいた。猫型のクッキーだった。

「これ、貰っていっていいですか?」

 そのとき、僕はどうしてもそれを食べる気にはなれなかった。マスターに謝って、紙ナプキンに包んでもらった。


   あのあと、クッキー食べたんだっけ……。


 捨ててはいないはずだ。かといって食べた記憶はない。僕は思った。


   さては、彼が食べたのか……?

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