第28話 約束
澄んだ秋の空に映える茜色の夕日が、紅葉の終わりを惜しんでいるようだ。もう直ぐ冬がやってくる。
ナーォ。
猫の鳴き声がした。琥珀色の動くものがきちんと座っていた。そうして動かずにいると、本当に、大きなビスケットのようでもある。
猫は僕を待っていたようだ。アカネと同じまなざし。真っ直ぐに僕を見つめる瞳は、青みを帯びていた。
ナーォ。 「アカネに会った?」
猫がしゃべった。けど僕は驚かない。だって天使だから。
「ああ、会ったよ」
ナーォ。 「また来る?」
「ああ、また来るよ」
猫の前を通り過ぎ、振り返って僕は訊いた。
「その……君のそこ、誰かにやられたの?」
猫は答えた。
ナーォ。 「忘れた」
アカネが付けた『ビスケ』という名があったが、僕はその猫を『無種』と名付けた。
僕は無種との約束どおり、度々施設を訪問した。子供たちとおやつの時間を楽しんだり、庭で鬼ごっこをしたり。教わったお祈りをして、賛美歌を歌った。冬のお楽しみ会には天使を演じた。厚紙を切り抜いて白く塗られた羽を、子供たちが作ってくれた。僕に背負われたその羽は、本物よりもずっと天使らしかった。
かなりの頻度で、無種とも鉢合わせをした。その時だけは、僕も無種を『ビスケ』と呼んだ。
僕の膝の上に座ったアカネが首を後ろに回し、見上げて言った。
「お兄ちゃん、猫とお話しできる?」
また僕を固まらせる質問だった。天使の次は超能力者とでも捉えているのかと、僕は心の中で密かに思った。
「どうかな、なんで?」
「ねえ、ビスケにここで一緒に住もうって言って」
「自分で言ってみれば?」
「もう何回も言った。でもビスケ人間の言葉わからないのよ。ねえ、ビスケのこと呼んでみて」
僕は無種の鳴き声を真似て、呼んでみた。
「ナーォ」
無種は別の子のひざの上で体をなでられていた。伸びをして僕と視線を合わせ、近寄ってきた。
「ほら、やっぱりお話しできる」
「偶然だよ」
僕は否定したが、アカネは疑わない。
なんで来るんだよ……。
無種にそう言ってやりたかった。
「いいから、早く、ビスケに言って」
「ナーォ」 (一緒に住もうって)
ナーォ。 「そのうちね」
「ほら、ビスケ答えた。ねえ、ビスケなんだって?」
はしゃぐアカネになんて言おうか。一瞬迷ったが、僕は答えた。
「お引っ越しの準備が終わったら、だって」
「やった。ほんとねビスケ、約束よ」
アカネは満面の笑みで無種を抱きしめた。アカネにきつく抱きしめられた無種が僕に向けた顔は、困っている表情に見えた。だけど、僕はうそはついていない。無種はいやだとも、無理だとも言っていない。『そのうちね』は、そのうち一緒に住むということだと伝わってきた。
今思えば、とても不思議なことだった。傷ついた猫の無種が現れたのに、縮尺模型の中にとげとげの「玉」はできなかった。それだけでなく、この施設のまわりでは一つも「玉」ができなかった。神の一番近くであるにも関わらず。「玉」が教会を避けているみたいだった。人が信じる神とは、いったい何なのだろう。
六度目の呼出しのとき、彼はその理由を飛ばしてくれなかった。
アカネが小学校に上がるころ、僕はこの町を移動した。
無種は施設へ引っ越しをしたのだろうか……。
もう、それを確かめることはできない。
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