第27話 教会

 僕は初めて教会に入った。奥の祭壇の十字架が、厳かな雰囲気を醸し出していた。ベンチ型の木製椅子が、通路の左右に五列ずつ並んでいる。壁にはステンドガラスがはめられていて、色とりどりの光が素朴な椅子を彩っていた。

 子供たちは前方の椅子から、年の小さい順に行儀よく座っていった。若いシスターがオルガンの用意を始め、もう一人のシスターは祭壇に立った。僕は一番後ろの席に座るよう施設長に促され、二人で並んで座った。

 胸の前で手のひらを合わせ、お祈りが始まった。僕は格好だけ真似をして、子供たちの暗唱を聞いていた。


 僕は祈りの言葉を知らない。彼はどうだか知らないが、僕自身は祈ったことも祈られたことも、一度もないから。お祈りが終わると、若いシスターの伴奏で賛美歌を歌った。これも僕は当然知らない。ただ聞いているだけだったが、オルガンの音色と澄んだ声に、不思議と心が安らかになる気がした。

 子供たちのお行儀の良さは徹底していた。誰も儀式の最中に騒いだりしない。後ろを振り向いたり、隣の子に話しかけたりもしない。美しく響くこれこそが天使の歌声。僕よりも、この子たちこそ天使と呼ばれるのに相応しい。

 歌が終わり、若いシスターはオルガンを片付けた。

「さあみんな、お勉強の時間です。天使さんにさよならして、お部屋へ戻りましょう」

 壇上にいたシスターが子供たちを一列に並ばせ、中央の通路を出口に向かって歩いてきた。僕の脇を通り過ぎるとき、子供たちはみんな「さよなら」とあいさつをしてくれた。僕も「さよなら」と答えた。最後尾のアカネだけは、こう言った。

「また来てね。おにいちゃん」


 オルガンを弾いていたシスターが最後に出たあと、扉が静かに閉じられた。僕も外へ出ようと席を立つと、施設長が僕の肩に手を置いて言った。

「あそこの絵よ」

 僕は振り向き、施設長が手で示した方向を見た。中央に神様と思われる人物が立ち、そのまわりを小さな羽の生えた天使が囲んでいる。

「左下の天使」

 僕は、左下に視線を移した。

「あなたに似ていない?」


   まあ、そう言われれば……。


「アカネはあなたをあの絵の天使だと思ったのよ。あの子、お祈りのときも、歌のときも、ずっとあの絵を見ていたわ」

「なぜです?」

「さあ、絵の中にはちゃんと天使はいるし、あなたがあの絵から出てきたのではないって納得したのじゃないかしら」


   ああ、だから最後に、おにいちゃんと呼んだのか……。


「あの子たちは、みんなかわいそうな子。でも、みんな神の子」

 施設長は言う。病気や事故で両親を亡くした身寄りのない子。訳あって今は家族と一緒に暮らせない子。親に捨てられてしまった子。最年少のアカネはまだ五歳。高校生までの十二人が、寄り添い合い、励まし合って生きていると。

 この時間は高校生はアルバイトをしているので、七人しか会えなかった。

「アカネは親に捨てられたの」

 僕は施設長の顔を凝視した。遠い目をして、年老いたシスターは続けた。アカネの身の上はこうだった。


 風の強い日の夜のこと。風の音に混じって、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。探しに出ると、教会の中から泣き声が聞こえてきた。赤ん坊は祭壇の十字架の下で、大粒の涙を流しながら泣いていた。薄手のおくるみに包まれただけで、裸だったそうだ。

「こんな豊かな時代になっても、我が子を捨てる親がいることが悲しかったわ」

 過去を思い出すシスターの目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。

 教会の扉に鍵はない。誰でも神に祈れるようにと外したのだそうだ。鉄の門は、大人なら簡単に外せるようになっている。アカネの親は敷地に入って、神にこの子を委ねたのだろう。僕は祭壇を眺めながら、赤ん坊のアカネの泣き顔を想像した。


 ここには、僕の知る神はいない。飾られた十字架や絵の中の、彼女たちの思う神もいない。人はいったい、何に願っているのだろう。仮に僕の知る神が願われたとして、彼はそれを叶えるだろうか。

 彼のことだ、きっと叶えはしないと思う。僕たちはただ見守るだけで、万能ではないから。


「アカネが言うのよ。私は結婚なんてしない、子供も要らないって。あんな小さな子がそんなこと言うなんてね。私たちシスターが、神に仕える者として結婚しないのとは意味が違うもの。哀れよね」

 シスターはゆっくりと扉へ向かった。僕も後ろについていき、そのままシスターは門まで見送ってくれた。

「良ければまたいらしてちょうだい」

 僕は頭を下げ、別れた。

 陽はすっかり西に傾き、辺りは薄暗くなっていた。

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