第26話 施設

 シスターは少女の手を引き、ゆっくりとした足取りで僕を建物の中に招き入れた。ガラスの引き戸から中へ入ると、扉を上に開ける木製の下駄箱が置いてあった。幼稚園だったとは思えないほど色味がなく、どう見ても玄関とは言えない。出入口という呼び名が相応しかった。シスターが来客用のスリッパを出してくれた。僕は靴を脱ぎ、空いた下駄箱に収めた。

 廊下の片側には、子供達の名札が下がった扉が並んでいた。おの奥に。居間にしている部屋があった。部屋といっても、そこはかつての幼稚園の教室。家具や装飾品で補ってはいるものの、家庭的な安らぎや、温かみには欠けていた。それでも、子供たちは和気あいあいと楽しそうにミルクを飲み、お菓子を頬張っていた。


 僕は壁際のソファーを勧められた。シスターに言われて、私服にエプロンをつけた若い女性が紅茶を出してくれた。みんなが食べているのは手作りのビスケットのようで、僕にも同じものが三枚、紅茶に添えてあった。

 エプロンの女性が、それは自分の手作りだということと、ここにはほかに二人のシスターがいて、僕を招き入れたシスターは施設長だと教えてくれた。さらに、自分は今年の春に高校を卒業し、ここを出て一人暮らしをしていること、時間があるとお菓子を持って手伝いにきていると話し、僕の相手をしてくれた。


「なんだー、星形だ」

「これはハート」

「わたしねこちゃんビスケットが食べたい」

 子供たちがビスケットの形で騒ぎだした。

「どんな形だって、味は一緒よ」

 エプロンの彼女はそう言いながら、子供たちの輪に入っていった。

「そうだよ、口に入れちゃえばおんなじさ」

 ほかの子供が言った。

「でもねこちゃんビスケットがいいのっ」

 ごねる子供に、エプロンの女性は静かに言った。

「ねこちゃんビスケットは、アカネちゃんが嫌がるでしょ。だから星とハート」


   なんで猫の形がいやなんだろう……。


 施設長は窓ぎわに置かれたテーブルに座り、子供たちの様子を眺めながらミルクを飲んでいた。飲み終わってコップを片づけたあと、さっきまでエプロンの彼女がいた僕の隣に座った。

「おかしな会話でしょ」

「あのアカネという子、なぜ猫の形がいやなのですか?」

 僕は尋ねた。

「さっき追いかけてたでしょ?」

 アカネが追いかけていたもの……琥珀色の動くもの。そういえば『ビスケ』と呼んでいた。


   そうか、あれは猫だったのか……。


「半年くらい前、庭でうずくまっているのをアカネが見つけたの。衰弱しているようだったから獣医さんに看てもらっ他の。ここで飼ってもいいと思ってるのだけど……居着かないのよ。時々やって来て遊ぶけど、またどこかへ行ってしまうのよ」


   それで『またおいで』か……。


「色が似てるでしょ。だから、アカネは猫の形のビスケットを食べなくなったのよ」

 続けて、施設長はエプロンの彼女の話をした。高校を卒業したあと洋菓子屋で働いていて、ケーキやお菓子作りの修行をしているという。それで、練習に焼いたお菓子をこうして持ってくるのだそうだ。

 僕はハート型を一枚いただいた。お金を払ってまでの味とは言えないが、それなりに美味しかった。彼女の笑顔のように、やさしい甘みが口の中に広がった。

「獣医さんがおっしゃったんだけど、ビスケはオスでもメスでもないって」

 何の話かわからず、僕は混乱した。

「なんのことですか?」

「生物学上はオスなんだけど、その象徴が切り取られてしまっているそうよ。弱っていたのはそれが原因ではながったけど、治療するのがあと少しでも遅ければ天に召されていたでしょうって」

 猫の話だった。また、傷ついた猫が現れた。


 施設長は僕のことを何一つ聞かなかった。

「子供たちの看病の甲斐あって、元気になったのよ。一緒に暮らせばいいのに、今ごろどこにいるのかしら」

 かわりに、猫の話ばかりしていた。


 ミルクとお菓子でおなかのふくれた子供たちが、僕のまわりに一人二人と集まってきた。

「ほんとに天使なの?」

 男の子が聞いてきた。僕は笑うだけで、何も答えなかった。

「ぜったいそうよ。だって白い服に髪の色が茶色でしょ」

 アカネが言った。

「神様ってやさしい?」

 アカネより少し大きい女の子が聞いた。この問いかけにも、僕は答えようがなかった。僕の知っている神様は……まあ、やさしいのかな。

「天使さんはどこに住んでるの?」

 子供たちの質問は矢継ぎ早で、僕が答えなくても不自然ではなかった。

「羽ある?」

「空、飛べるの?」

「お願い事叶えてくれる?」

 さすがに、次から次へと微妙な内容の質問に困惑していると、施設長がまたも救ってくれた。

「みんな、天使さんと教会でお祈りしましょう」

 とうとう、施設長にまで天使と言われてしまった。だけどそのひと言で、子供たちからの質問攻めから解放された。

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