無種の章

第25話 少女

 五度目の呼出しのあとすぐに、僕は別の街へ移動した。用意された部屋にはそれまでと同様に、縮尺模型がほとんどを占めていた。窓にはまたも、ライトグリーンのカーテンが掛けられていた。目立って変化したことがひとつ。床がフローリングになった。


 長い間分断されていた国が、隔てていた壁の崩壊とともに統一された頃だ。また、かつて国境をめぐって争っていた二国間の停戦が、資源をめぐる新たな争いとして勃発した頃でもある。

 それらとは無関係に、縮尺模型の世界は平和だった。浮かれていられる時代の終焉が、もうすぐ目の前に迫っているとは考えもせず、人々はいたって平和だった。しかし、人々の目には触れないだけで、不穏な歪みはここにも生じていた。

 どんな時代でも犠牲になるのは弱者だ。その中で最も顕著なのが子供。古い時代には労働や欲を満たすための売買、口減らしのための捨て子、借金返済のための奉公など、大人社会を保つためのしわ寄せが子供に降りかかる。形が違えど、今の時代も根本に変わりはない。



 部屋からそう遠くない所に児童養護施設があった。小さな教会と並んで建ち、以前は教会が運営する幼稚園だったらしいが、神の思し召しか、施設になったそうだ。


   彼が思し召したのか……?


 そこでは、さまざまな事情の子供たちが身を寄せ合って暮らしている。親に捨てられた者、病気や事故で両親を亡くした者、訳あって一緒に住めない者。

 敷地の周りは、ブロック塀と垣根に覆われていた。かろうじて中の様子をうかがえるのは、鉄製の門がある入口だけ。その門の正面に教会がある。三角屋根のてっぺんに、銀色に輝く十字架が掲げられていた。以前幼稚園だった施設の建物は教会の陰になっていて、その入口からも見ることはできない。近くを通りかかると、ときどき子供たちの楽しそうにはしゃぐ声が聞こえてきた。おそらく庭で、鬼ごっこでもしているのだろう。

 神に守られて暮らしているのだから、さぞ「玉」の気配が濃いのかと思ったが、そんなことはなかった。濃くもなく、薄くもなく、他の場所と変わらなかった。そういうわけで、教会だからと特別視はせず、巡回は他の場所と同じ頻度にしていた。

 十字架を見ても、心が動かされることはなかった。引きつけられることも、畏怖を感じることもなかった。人間が信仰している神と、僕の知っている神は同一ではないのだろうと思った。



 ある日の午後、この教会のある地域を巡回していた。もうすぐ垣根の境目、鉄製の門に差し掛かるというときのことだった。幼い少女の声が聞こえてきた。

「ビスケ、ビスケ、おいで」

 声は教会の敷地の中から、外にいる僕のほうへと近づいてきた。と、突然柵のすき間から琥珀色の動くものが飛び出してきて、通りの反対側へ消えていった。門は閉まっていた。

「ビスケ、またおいでね」

 声の主は四、五歳の少女だった。門の鍵の位置は彼女には届かない。少女はそれをわかっているのだろう。琥珀色の動くものが消えた方向を見つめながら、小さくつぶやいた。

 少女は視線を動かし、僕に気づいた。つぶらな瞳が、真っ直ぐ僕を見ている。上から下まで視線を走らせたあと、少女は言った。

「誰? 天使?」

 僕は固まった。返す言葉が見つからない。うなずくわけにもいかないし、否定するのも嘘だし。僕も少女を真っ直ぐ見返したまま、視線を外せないでいた。

「アカネちゃん、もうお部屋に戻りなさい」

 敷地の奥から救いの声がした。

「シスター、天使がいるの」

 僕は再び固まった。

 話が大きくなるのは避けたい気持ちの反面、なぜか逃げ出すことができなかった。万が一不審者にでも思われたら、二度とこの辺りの巡回はできなくなるのに。そんなことよりも(いや、それはそれで困ることだが)警察に通報されたら、僕は何といって弁明すればいいのか。彼の都合でどうにかしてくれる確証は持てないが、観念してシスターが見える所まで数歩門に近づいた。

 シスターはゆっくりとこちらに歩いてきた。そして、少女の右手を握リナがら言った。

「ほんと、天使さんね」

 僕は三たび固まった。


 シスターは微笑みながら鍵を外し、鉄門を開いた。

「これからおやつの時間なんですよ。よろしければご一緒にお茶はいかが?」

 少女はその瞬間、満面の笑みで左手を上げ、僕の手をとった。

「わーい。天使さんとおやつ」

 少女の無垢な眼差しに、僕は従うしかなかった。

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