第22話 追尾
十分ほど経ってから、二人も店を出ていった。昼時をとうに過ぎたというのに店内は満席で、入り口の表に名前を書いた人たちが、席が空くのを待ちわびていつ。もう一品注文しようかと考えていたが、やめた。
その店は二階にあった。階段を下りて大通りの歩道に出たとき、すれ違いに入ってきた車が急ブレーキの不快な音を出した。驚いて振り向くと、季節外れのサングラスをかけた女性が運転席から出てきた。女性の胸元や手首では金のアクセサリーが、ジャラジャラと音を立てていた。
「あんたの猫なの?」
女性が叫んだ。僕は一瞬それが、自分に言われているとは思えなかった。
「あんたの猫でしょ? 急に飛び出して、危ないじゃない」
女性は強い口調で続け、人さし指を立てて僕に向けてきた。高価そうなアクセサリーたちが、さらにジャラジャラと揺れた。
そっちだって、駐車場に入るにしてはかなりのスピードだったじゃないか……。
そう心に浮かんだが、言葉にはしなかった。それよりも、猫というワードが理解できなかった。反応のない僕に彼女は、ますます強く言った。
「その猫よ、あんたの足元」
彼女の指先に誘導されて見下ろすと、僕の足の左側に猫が座っていた。つやつやとした漆黒の毛並みと丸い藍色の瞳を西日に輝かせ、背筋を伸ばして僕を見上げていた。
「あ、す、すみません」
不覚にも、僕は素直に謝ってしまった。
急ブレーキの音に驚いて止まっていた周囲の人たちは、僕のその返事を聞いて再び動き出した。彼女は立腹したまま運転席へ戻り、空いているスペースへ乱暴に車を止めた。
僕は大通りの歩道へとゆっくり歩き出した。片側二車線の道路には引っ切りなしに車が通っていく。レストラン前の停留所ではバスが乗客を乗り降りさせていた。
猫は当然のように僕についてきた。大通りから逸れて脇道へ入ると、すっとまわりから人がいなくなった。それを見計らってか、可愛らしい声で猫が鳴いた。
ミャッ。 「ごめん」
猫がしゃべった。けど僕は驚かない。だって天使だから。
その猫は声にも丸い瞳にも似つかわしくない、歪な顔をしていた。右側の鼻が左側に比べて膨らんでいるのだ。僕は猫を抱き上げ、鼻の穴をのそき込んだ。次に、人差し指で外側から触ってみた。硬い球状のものが押し込まれているようだった。
「いいさ。それより、息できてる?」
ミャッ。 「左で」
「痛くない?」
ミャッ。 「痛くない」
「この鼻、誰かにやられたの?」
ミャッ。 「忘れた」
僕はその猫を『半鼻』と名付けた。
もし記憶がしまわれていなかったら、半鼻をすぐに動物病院へ連れていったかもしれない。だけど、その時の僕はそんなこと考えもしなかった。
道に下ろしてからも、半鼻はずっと僕のあとをついてきた。僕が立ち止まれば、半鼻も立ち止まった。信号の変わりしなで駆け出せば、同じように駆け出した。振り向けば、小首をかしげてこちらを見ていた。そんなこんなしながら、とうとう僕の住むマンションに着いてしまった。
ペットを許可するマンションはその頃にはだいぶ増えていたが、僕のところは禁止されていた。どのみち、半鼻は入ってくるのだろう。今さら、中の階段と外の階段とで別々に部屋へ行くのもおかしな話だ。僕は迷うことなく、外階段を三階まで上った。
半鼻はピョンピョンと、跳ねながら上ってくる。部屋のドアを開けたとたんに僕の両足の間をすり抜け、部屋に飛び込んでいった。何をするかと思えば、半鼻は真っ先に模型のところへ行き、西側でガサゴソと音を立てた。僕は冷蔵庫を開き、二人分のミルクを用意した。一つはマグカップに、一つは平たい小皿に。
ミャッ。 「できてる」
「何が?」
半鼻の脇に皿を置き、空気の入れ換えにライトグリーンのカーテンと窓を開けた。僕は自分のミルクを一口飲んでから、半鼻の前足が掛かった辺りをのぞき込んだ。
「ああ、新しいのができたんだね」
僕が「玉」確認し終えてから、半鼻は脇に置かれたミルクを飲みだした。
小さい小さい「玉」だったが、他のものとは明らかに違った。全体的に、とげが出ている。
「変な形だね」
ミャッ。 「彼女の」
「彼女?」
ミャッ。 「そう、彼女」
「彼女……どこの彼女?」
ミャッ。 「三人組」
ミルクを飲み干した半鼻はそれだけ言って、窓から出て行ってしまった。思い当たる三人組といえば、さっきファミリーレストランで隣に座っていた彼女たち。その中の、誰なのかを知りたかった。
その夜の巡回場所は、街の西側に決まった。
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