半鼻の章
第21話 店内
最初の記憶から、優に二十年が経っていた。それまでに三度町を変わり、四度彼に呼ばれた。今でこそこうして過去を思い出せているが、あるものに関したことだけはすっかり抜け落ちていた。彼が忘れさせたのか、僕自身がそうしたのかはわからないが、それらの記憶には鍵が掛けられて、心の奥にしまわれていた。
町の名前は最初から気にしていない。それぞれの町でどんな部屋に住んでいたか、どんなものを食べ、「玉」をいくつ集めたか、何度彼に呼ばれたか。それらのことはしっかりと記憶している。ところが、とげとげの「玉」が現れたこと、それぞれの町でどんな人に出会ったか、そして、猫のこと。僕の中では無いものとなっていた。
その頃、世の中は高度成長期を経て、経済の絶頂期に入っていた。町の発展は目覚ましく、町ではなく街と表記するにふさわしくなった。規模の大きな駅には繁華街が広がり、コンビニが二十四時間営業になり、街は眠らなくなった。人々の生活は豊かになり、大人も子供も様々な知識、娯楽を手に入れだした。街も人も、新種の活気に満ちていた。
夜の巡回がしにくくなった代わりに、明るいうちに出歩いていても、僕は人の目を気にする必要がなくなった。彼が用意してくれた部屋も、とりわけグレードアップした。外食を頻繁に始めたのも、この頃だった。
部屋から十五分ほどの大通り沿いに、流行りのファミリーレストランがあった。大きな黄色の看板が車からでも目立って見えるためか、時間帯によっては平日でも駐車場、店内が満杯になることが多かった。そういう時に一人で四人席を占領するのは心苦しかったが、手頃な価格と料理のボリュームは、僕にとっては好都合だ。それで、度々利用していた。カロリー摂取のためだけの食事が、少しは意味のあるもののように感じられていた。
十一月末、華やかなイルミネーションが街を彩り始めた頃のことだった。日曜日の昼時、手頃なランチサービスがないにも関わらず、小さな子供連れの家族やカップルで、その日の店内は一段と賑わっていた。混雑時の入口には決まって、名前と人数を書き入れる表が置かれていた。僕に名前はない。けれど、こんなときのために決めていた。
表に書かれた席へ通した名前は、ウエイトレスが二重線で消していく。まだ消されていない行の三番目に、僕は『アマツカ』と書いた。次に、印刷された文字の『どちらでもよい』に丸をつけた。その頃も禁煙・喫煙の区切りはあったが、禁煙席のほうが狭かったと思う。
三十分ほどして名前が呼ばれ、禁煙席へと通された。奥の二人席だった。注文の品は大概決まっていたが、メニューを開いたまま選んでいる振りをした。そうしながら、僕はいつものように辺りを見回した。
幸せそうな若いカップル。一つのメインを、二人で分け合っている年配夫婦。テニス帰りの主婦団。よちよち歩きの赤ん坊のいる家族は、祖父母を入れて総勢八人。そんな光景が視界に入った。人々の話し声と、食器の触れ合う音が店内に溢れていた。
隣の席には女子三人組がいる。それぞれが食後のデザートを楽しみ、おしゃべりに花が咲いていた。聞き耳を立てているわけではないが、彼女たちの会話が聞こえてきた。
「次の合コンどうする?」
三人の中で、一番派手な服装の一人が言った。
「医大生とかに知り合いいないの?」
まつげが長く、化粧が濃いめのもう一人が言った。
「そろそろネタが尽きてきたね」
ショートカットの、ボーイッシュな三人目が言った。どうやら彼女たちは、近くの女子大に通う学生らしい。
「そう言えばサユリ、この間のディスコ、途中で消えたでしょ」
派手な服装がショートカットに聞いた。
「ああ、まあね」
「彼氏が迎えに来た?」
「彼氏じゃない。ただのアシ」
「アシ、メシ、ミツグ、いったい何人いるの?」
「さあね」
それまでの笑顔を少し曇らせて、ショートカットが小さく答えた。
彼女たちの言う『アシ』とは、送り迎えをしてくれる男性のこと。『メシ』はご飯をおごってくれる男性。『ミツグ』は欲しいものを買ってくれる男性。今ではすっかり、死語になった言葉だ。
まるでその場所に、彼女たちしかいないかのように、三人の会話が耳に入ってきた。
「もう合コンの必要ないんじゃない?」
派手な服装がサユリに意地悪く言った。
「それとこれとは別」
「そのうちバチが当たるよ」
デザート用の長いスプーンで顔を突く仕草をして、長いまつげが返した。
「あなたたちだって、人のこと言えないでしょ」
友人の問いかけに反応してはいるが、サユリはどこか虚ろな目をしていた。心ここにあらずと、僕には見えた。
サユリは目の前のパフェはつつくだけで、ほとんど食べてはいなかった。溶けたアイスクリームが、グラスの下のフレークを膨れ上がらせていた。
「来年は四年だし、そろそろ就職のことも考えなきゃ」
長いまつげが、その外見には似つかわしくない話題に変えた。
「えー、まだ早いって。わたし何にも考えてない。とりあえずどっかの企業で事務でもやると思うわ」
派手な服装が返した。
「どっかの企業ってどこよ」
「さあ、どっかはどっかよ。そこでいい男見つけて、数年で円満退職」
「それが一番の問題でしょ!」
「三高ゲットできるならどこでもいいわ」
彼女たちの言う『三高』とは、女性が結婚相手に望む高学歴・高収入・高身長のこと。『アシ』『メシ』『ミツグ』と同様、この頃の流行語だ。
「確かに。やりたいことって聞かれても答えられないし、求人が多いからどっかには入れるだろうし」
「そうそう」
「だから『今は遊ぶ』だ、ミキ様は」
「そういうこと」
二人の会話をよそに、サユリは変わらずパフェをつつくだけだった。会話中ずっと、ミキと呼ばれた派手な服装の彼女は、斜め前のサユリにチラチラと視線を向けていた。ミキの隣の長いまつげは、そのことにまったく気付いていない。
「そろそろバイト行かなきゃ」
腕時計を見たサユリは、無惨な姿のパフェを残して席を立った。お札と小銭を財布から出して二人の前に置き、振り返りもせず店を出て行った。
残された二人に、しばらくの沈黙があった。長いまつげがサユリのいた席に移り、ミキと向かいに座り直して言った。
「知ってる?」
「何を?」
「あの子のうわさ」
「うわさ?」
「サユリ、男遊びも派手だけど、何かヤバいことにも手を出してるって」
「ヤバいって、何?」
「そこまではわからないけど……」
長いまつげは、またも気付かなかったようだ。ミキの声のトーンが下がり、表情に微かな陰りが表れたのを。僕はそれを見逃さなかった。
僕は近くのウェイトレスに声をかけ、いつものニンジングラッセが美味しいハンバーグセットを注文した。
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