第19話 張紙
頻繁に少年の家を巡回していたが、時々少年は真夜中にふっと消えることがあった。消えて無くなるわけではない、どこかへ行ってしまうのだ。隠れたと言うほうが正しい。
一週間ぶりのこと。ベランダから、カリカリという聞き慣れた音がした。夕飯後の九時きっかりだった。カーテンと窓を開けてやると、短尾はためらいなく部屋へ入ってきた。迷わず模型の北側に行き、じっと中をのぞいた。視線の先は当然、小刻みに震えるとげとげの「玉」だった。
ニャーゴ。 「行った?」
「ああ、家族を見たよ。少年が夜中に庭へ放り出されていた」
ニャーゴ。 「そう」
「真夜中過ぎに、やっと母親が家の中へ入れてやってた」
ニャーゴ。 「そう」
その夜は巡回には出かけず、短尾の話を聞いた。
短尾が言うには、カノウ先生が看た猫たちはあの少年の仕業だった。猫を傷つけるときも、少年は表情を変えないのだそうだ。泣くでもなく、怒るでもなく、微笑むでもなく、作り物のお面のようだと。
あの夜、顔を赤くして仁王立ちしていた少年の父親は、四年ほど前に親から継いだ駄菓子屋を潰してしまった。どこかに勤めることもなく、それ以来仕事をしなくなった。生活費は母親の仕立て直しと、息子の牛乳配達の収入だけ。しかもそのほとんどを酒に変えてしまうため、生活はどん底だ。父親が店が潰れたのは、商売が苦手だったというより子供が苦手だったから。子供相手の商売で、子供が苦手では無理もないが、誰でもかつては子供なはずなのに。
短尾はさらに細かく説明してくれた。どこから仕入れた情報だか知らないが、昔の話までよくわかったものだと、僕は感心した。
父親が子供の頃のことだ。大好きな駄菓子が、手を伸ばせばすぐ届く場所にある。だけど売り物に手を出すなと父親、つまり少年の祖父に禁じられていた。目を盗んで手を出そうものなら、平手が飛んできた。
自分に対しては厳しいのに、お客に対しては愛想を振りまく。同級生が買いに来たときには、おまけのおまけまで出していた。一般的に考えれば無い話ではない。しかし、我が子とよその子に対するあからさまな態度の違いに、父の商売が嫌いになり、結局はお客である子供が嫌いになっていったのだ。
あの父親は、自分の子供まで嫌いになったのだろうか……。
僕は台所へ立ちながら思った。
いや、短尾でも調べきれなかった、もっと深い理由があるかもしれない。正体をなくすほど酒を飲み、憎まれ口をたたくのは、何かから逃げているようにも見える。
僕は平たい皿に牛乳を注ぎ、短尾のそばに置いた。
ニャーゴ。 「先生が通報したよ」
「また傷ついた猫が来たんだね」
ニャーゴ。 「そう」
「いつのこと?」
ニャーゴ。 「一週間くらい前」
「少年が庭へ放り出された日?」
ニャーゴ。 「次の日」
「そう……」
ニャーゴ。 「そう」
「おまえもあの子にやられたの?」
このときの問いにも答えはなかった。短尾は黙って牛乳を飲み終えると体の向きを変え、小刻みに震えるとげとげの「玉」に視線を戻した。
僕は隣に並び、一緒になって「玉」を見つめた。
背丈まで浮き上がった「玉」は飲み込む。彼に呼ばれたとき、体内から取り出されるのだろうけど、とげとげの「玉」の対応は聞いていない。それについて彼は、何も飛ばしてくれていない。壊せとか、放り出せとか、捨てろとか、とげとげを削れとか、なんにも。
この「玉」、どうしたらいいんだろう……。
思いを声にして、短尾に聞いてみた。
「これ、どうしたらいいと思う?」
ニャーゴ。 「知らない」
「そうか、おまえも知らないか」
壊せない、放り出せない、捨てられない、削れない。
ま、なんとかなるか……。
僕の中のポジティブさが、結論を出した。
ほどなくして、町のあちらこちらに、警察の張り紙が目立つようになった。
けがをしたねこをみつけたり
おかしいなとおもったら
すぐにけいさつへ
すべてひらがなで書かれてあるのは、小さな子供にも読めるようにと考えてのことだろう。あの少年も、この張り紙を目にしているはず。
どんな気持ちで見ているのだろうか……。
それからも一日に必ず一度、少年の家に行くようにしていた。人の気配のしない昼間に、怒鳴り声の聞こえる夜に。
しかし結局、ただ見守るだけの日々で半年が過ぎてしまった。とげとげの「玉」は毎日毎日、小刻みに震えていた。
僕が、万能ではないことを実感した日々だった。
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