第18話 仁王
二十三時三十分、僕はアパートの屋上に上がって翔び立った。月は雲に隠れていた。町に人気はなく、目撃される心配はなかった。その頃は夜のネオンはまだ少なく、黄色を帯びた街灯がほのかに道路を照らしていた。
目的の場所の周辺は、一軒家が並ぶ閑静な住宅地だった。どの家もそれなりの広さの庭を所有し、草木が豊富に植えられている。古びた木造の家々は、何代も家系が続いていることを物語っている。この辺りにも、野良猫が多いのだろうと思われた。
誰もいないことを確かめてから地面へ降りた。左右を見ながら用心して歩いていると、静けさを打ち砕く怒鳴り声が聞こえた。
「何やってんだ、ふざけんな」
同時に戸が勢いよく開き、ガシャガシャンとガラスの音まで聞こえた。僕は足を速めて声のしたほうへ向かった。最初の角を曲がった左手の家だ。目隠しの為に植えられた垣根だが、ところどころすき間があった。僕はその間からそっと中をのぞいた。
正面に居間のガラス戸が見える。その手前には縁側があった。ガラスが割れたのかと思ったが、どうやらがたついただけのようだ。カノウ動物病院より大きいガラスがはまった戸だから、音だけが大きく響いたのだ。
縁側に、仁王立ちの男が見えた。顔をまっ赤に染め、左手に一升瓶を握っている。男が見下ろす庭先には、放り出されたのだろう、十五歳くらいの少年が倒れ込んでいた。
「金がねえならお前が稼いでこい」
男は吐き捨てると戸を閉め、鍵をかけてしまった。男が戸から離れると少年は立ち上がり、ふらふらと歩き出した。そして、ほとんどが枯れてしまっている盆栽棚の、一番下に腰をおろした。秋が深まり始めた時期だった。凍えるほどの寒さではないが、それでも、部屋着一枚では震えることだろう。
午前二時、ようやく家の中の明かりが消えた。
しばらくして、裏の勝手口から庭へまわって、母親が出てきた。少年の靴を手に、物音一つ立てず、一歩一歩慎重に少年に近づいた。足元に置かれた靴へ同時に両足滑り込ませ、少年は座ったときと同じにふらふらと、勝手口へ戻る母親についていった。母親が来る前も来てからも、少年はじっと座ったまま表情一つ変えなかった。泣くでもなく、怒るでもなく、微笑むでもなく。まるで、いっさいの感情を失ってしまっているように見えた。
やはり寒かったのだろう。両手を組んで体を縮め、前屈みになって震えていた。
『猫は尾で感情を示すから、尾がないのであれば気をつけなさい』
カロウ先生の言葉が浮かんだ。少年と短尾が、重なって見えた。
模型の中のとげとげの「玉」も、少年と同じに絶えず小刻みに震えていた。
次の日、昼の巡回で少年の家へ向かった。途中で運良くか悪くか、近所の主婦たちの井戸端会議に出くわした。僕は近くの小道に隠れ、気付かれないように話を聞いた。
「あそこの旦那、夜中にまた怒鳴ってたわね」
「ええ、うちまで聞こえてきたわ」
「お前が稼いでこいって、そのまま返してやりたいわよね」
「あの子、朝、牛乳配達してるっていうじゃない。まだ中学生なのに」
「手間賃全部奪い取って、お酒に変えちゃうらしいわ」
「うちの子同じ学校なんだけど、友達もいないみたいだって。いつも一人でいるって言ってたわ」
「奥さんも大変よね」
「ほんとに。真っ昼間からですものね」
「そんな旦那、わたしなら耐えられないわ」
主婦たちの話はまだ続きそうだったが、それ以上聞いていられなかった。僕はその場を立ち去った。
小道伝いに反対側の通りに出ると、左手に少年の家の玄関が見えた。門の表札の下に『仕立て直し承ります』と書かれた、古びた
旬を過ぎたキンモクセイが懸命に発する、最後の甘い香りが漂う庭へまわった。昨夜と同じ垣根のすき間から、中の様子をうかがった。まるで真夜中であるかのように、この家だけが静まり返っていた。ガラス戸の向こうには、人の動く気配すらない。
キンモクセイの花言葉には似付かわしくない父親は、まだ布団をかぶって寝ているのだろうか。顔を赤く染めたままで。
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