第17話 病院

 病院の場所は知っていた。

 団地の敷地を東西に分割するように、中央に道が敷かれている。敷地を出て、さらにその道を真っ直ぐ南へ五百メートルほど進むと、左手にあった。白い板に黒字の縦書きの文字。『動物病院』と書かれた看板が戸の横で傾き、くたびれ気味に掛かっていた。

 この容姿をあからさまに人前にさらすのは避けなければならないのに、あのときはそんなことも忘れるくらい動揺していたのかもしれない。案の定、通りすがる人たちのほとんどが、僕に目を向けてきた。

 僕は気にせず、病院までやってきた。とにかく、短尾の体だけが気掛かりで。


 入り口の引き戸は上半分が磨りガラスになっていて、中の様子はうかがえなかった。建て付けが悪いのか、木枠を削っただけの取っ手に触っただけでガシャガシャとガラスがなった。なるべく音が立たないように恐る恐る開けると、いろいろと処理しきれない複雑な心持ちとは裏腹に、取り付けられた鐘がカランコロンと心地良い音を奏でた。

「はーい」

 すかさず奥から、これまた心地の良い女性の声が返ってきた。


 声の主は白い割烹着を着た、少し白髪まじりの女性だった。朗らかな顔つきの彼女は僕の姿を見るなり目を白黒させて、明らかに戸惑いの表情に変わった。

「あ、えーっと、あー、ド、ドッグ、オ、オア、キャット?」

 どもりながら、普段使い慣れない言葉で質問してきた。

「いえ、カノウ先生はいらっしゃいますか?」

 僕が発した理解できる言葉にほっとしたようで、女性は少し落ち着きを取り戻したみたいだった。

「先生に何か御用ですか?」

 それでもまだ、完全に不信感は拭いきれないのだろう。彼女は眉を寄せたまま訊いてきた。

「傷つけられた猫について、お訊きしたいことがあるのですが」

 僕の返答に今度は表情を強張らせ、彼女は険しい表情だけで答えた。

「……お待ちください」

 少し間を置いてから低い声で返し、女性は奥へ戻っていった。


 しばらくすると、白衣を着た初老の男性が出てきた。男性もまた、同じように険しい表情だった。目の下にはクマができていて、実年齢よりも老けて見えるのは、おそらく無精髭のせいだ。着ている白衣も、看板と同じでくたびれ気味だ。『カロウ先生』と呼ばれていることに、充分納得できた。

「わたしに訊きたいこととは?」

 しゃがれた低い声。その言葉にも、僕への不信感が如実に表れていた。

「毛色は生成で瞳が紫色、しっぽを切られた猫をこちらで治療されたでしょうか?」

「瞳が紫色?」

 先生は非現実的なワードをつぶやいた。あごに右手を当てて記憶を辿り、やがて答えた。

「いや、看た記憶はないが」

「そうですか、お仕事中申し訳ありませんでした」

 僕は軽く頭を下げてお詫びを言い、帰ろうと体の向きを変えた。

 その背中に、厳しい声が突き刺さった。

「その猫がどうしたというんだ?」

 もう一度振り返って見た先生の顔には驚きと怒り、疑問や不安、様々な表情が混在していた。

「いえ特には。家の近くで何度か見かけたものですから。もしかしてと思っただけです」

「私の噂を聞いてここへ来たのかね?」

 先生の表情は声とともに、さらに厳しさが増していく。

「ええ、まあ」

「保健所とも相談してね、今後も続くようなら警察に通報しようと思っている」

「はあ……」

「まさかとは思うが、君ではないよね?」

 先ほどからの表情とその言い方からして、明らかに僕を疑っている。

「そんな、まさか。違います。誤解です」

 僕は慌てふためいて、声が裏返ってしまった。

「確かに、君はそんなことをするようには見えないがね、人は外見だけではわからないから」


   先生、僕は人ではないですけどね……。


「どんな人が、あんな惨いことをするのでしょう?」

 めげずに訊いてみた。


 先生は、非常に強い劣等感を感じていると、極めて残酷になるのではないかと言った。誰だって劣等感は持っている。この僕だって。

 先生は続きた。劣等感を打ち消すだけの優越感が持てたり、努力ができる人は暴力的な行為はしないだろう。反社会的な考え方をする、命の大切さへの認識が薄い者の仕業ではないかと。あるいはその本人自身が、痛みや傷を誰かに負わされている可能性もあると。

 いずれにしても犯人は複雑な環境にいて感情の表現に乏しく、常に緊張状態にあって抑圧されているのではないか、と結んだ。圧迫された感情のガス抜きのために、弱者への攻撃を選択することはめずらしくない。本人自身も、強者から攻撃を受けているのであろう。そして最後に、子供ではないかと先生自身の考えを述べた。

 僕はその考えに納得した。

 先生は短尾についても語った。動物は人間より自力治癒の能力が高い。短尾が被害にあった猫だとしたら、体力があって生命力が強い、比較的若い猫だったのではないかと。

「また会ったら可愛がってやってくれ」

 別れ際の先生は、僕への不信感を消してくれていたようだった。戸に向かう僕の背中に、猫は尾で感情を示すから、尾がないのであれば気をつけなさいと投げかけた。


   先生、心配ないですよ。


 僕は心の中で答えた。なにしろ猫の言葉がわかるのだから。だけどそんなこと口に出しては言えない。僕は素直にうなずいて、取り付けられた鐘の音を鳴らしながら戸を開閉し、病院を出た。


 その日、模型の中に初めてとげとげの「玉」ができた。団地からも動物病院からも離れた、模型の東側の際ぎりぎりの場所だった。当然だろうなと理解ができた。現場の近くにいたら犯人だとすぐに気付かれてしまう。ある程度離れていれば見知った人もいないし、やりやすいだろう。

 その夜の巡回場所が決まった。

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