第12話 姉弟

 午前四時五十分、定刻に起きて日課をこなし、二千五百キロカロリーの朝食を体内に収め、部屋を出た。雨の多い時期には珍しい、湿気の少ない爽やかな朝だった。翔んでくればほんの一瞬なのに、歩くとなると三十分はかかる距離。それでもなんとか七時には間に合い、同じ公園に着いた。

 夜更けに話をした時と同じベンチに、三足が丸まっていた。


「おはよう」


 声をかけると、三足は緑色の瞳で僕を見上げた。


 ニャン。 「おはよう」


 僕は三足を抱き上げて歩き出した。


 公園の裏の入り口前には、地下鉄の駅がある。公園を囲む低いブロック塀に寄りかかって三足の体を撫でながら、通りの向こう側の地下鉄への出入口を見ていた。飼い猫の朝の散歩をよそおってはいたが、犬ならまだしも、猫を抱いての散歩などいかにも不自然だったろう。幸い、通勤通学で足早に通り過ぎる人たちは、目的に向かう視線から逸れている僕らには目もくれなかった。


 ニャン。 「来たよ」


 頭をなでる僕の手を振り払うように首を伸ばした三足は、一点をじっと見つめた。視線の先には少年がいた。とげとげの「玉」の主、あの家の弟だ。僕は三足の視線を追った。

 茶色味がかった無地のブレザーにチェックの半ズボン、白いハイソックスに校章が印字された黒いランドセルという、いかにも私立校らしい制服姿だった。胸元にも校章のエンブレムが縫い付けられていて、柊をモチーフにした金糸が輝いていた。半分寝ぼけ顔で一人、本を読みながらフラフラと歩いている。後ろから軽く体当たりされるのは、足早に歩く大人たちの歩調を乱す原因となっているからだ。しかし、そんなこと弟は少しも気にせず、定まらない足取りで前へと進んでいった。


「あの子だね?」


 ニャン。 「そう」


 弟の名はセイヤという。おっとりとした印象だが、一般的な子供のイメージからかけ離れているというわけでもなかった。制服を脱げば、どこにでもいるごく普通の小学生だろうと思えた。

 セーラー服の少女がセイヤの後ろから小走りに近づいてきた。彼女は学生カバンとヴァイオリンケースを提げている。横に並んだときに一瞬、にらみつけるような視線をセイヤに向けた。そして追い越した直後、小さなため息をついた。間違いなく姉である。

 彼女はセイヤとの距離をぐんぐんと広げていった。やがて大人たちに紛れて、あっという間に地下鉄の入口までたどり着き、下りの階段に吸い込まれていった。


 姉だけでなく何人もに追い越されたセイヤは、ようやく集団の一番後ろで本を広げたまま階段を降りていった。僕は足を踏み外さなきゃいいけどと思ったが、毎朝のことなら心配ないのだろうと思い直した。


「彼の帰りは何時頃?」


 ニャン。 「四時くらい」


 僕らはその場を離れた。姉弟が来た方向、セイヤの家へと向かった。



 セイヤの家に着くと、ちょうど父親が車で出勤するところだった。妻の見送りはなく、車はすぐに道路を都心方向へ曲がって見えなくなった。父親の帰りはまちまちで、早ければ夜の七時頃、遅いときは十一時を過ぎることもある。

 車での出勤が多いためにお酒を飲んで帰ることはほとんどない。予め電車通勤するか、車を会社に置いてくることが年末に数回ある程度。お酒はもともと得意なほうではないらしい。趣味はゴルフで、週末には泊りで出かけることもしょっちゅうだとか。


 母親は日中、家でヴァイオリンの指導をしている。週三日の平日、近所の老紳士や主婦、学校帰りの子供たちが通っている。すらりとした美人で、いかにもクラシカルな落ち着いた雰囲気だとか。

 姉弟の仲はさっきの様子で想像がつく。姉が弟を煙たがってはいるが、ときどき喧嘩をするくらいで、付かず離れずの関係だ。


 全部三足が教えてくれた。聞いただけでは、これといった問題は見つからない。弟の「玉」にとげとげがあるのはなぜか、もっとこの家族のことをを知らなければならないと思った。

 刑事の『張り込み』みたいに、ここでじっと監視しているわけにもいかない。その日はその場で三足を降ろし、僕たちは別れた。

 三足の、ピョコンピョコンと跳ねるように歩く姿が痛ましかった。左前足がないことで、進む方向が定まらないのが不憫であった。体のバランスが上手く取れずに、少しずつ左側へと逸れていく。三足はジグザグに進むことで、問題を解決しているようだった。


 それからしばらくの間、昼も夜もセイヤの家を中心に巡回した。

 模型の家から取り出したとげとげの「玉」は少し大きくなり、屋根の辺りで右へ左へと揺れながら浮いている。どことなく、三足がジグザグに歩く姿とダブって見えた。

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