第13話 父子
ある日曜日の朝、ベランダで体内の換気をしていたときのこと。遠くで猫が鳴くのを聞いた。
ニャーン。 「公園へ来て」
三足の声だった。
二千五百カロリーの朝食はトーストが五枚。厚手のベーコン三枚と卵四つ分のフライドエッグ、トマトにキュウリにブロッコリー。山盛りサラダと季節のフルーツ。三杯のミルクは欠かせない。それらをペロリと平らげ、公園へ急いだ。
バコンバコンというボールを地面につく音が聞こえてきた。公園へ近づくにつれ、その音は大きくなっていった。姉弟を見た地下鉄の側ではなく、正門から敷地に入った。
そちら側から入ると、左手の奥にバスケットのゴールが一つある。休日や放課後に、高校生たちがスリー・オン・スリーをしているのを何度か見かけたことがあったが、この日は背の高い男性と少年がゴールを確保していた。少年はセイヤ、背の高い男性は父親だった。
ゴールの置かれている後ろには花壇があり、一メートルくらいの高さのブロック塀が作られていた。その上には鉄製の網が張ってあり、ボールが花壇へ入らるのを防いである。ブロック塀の足元のほうには所々に穴が空いている。風通しを良くするためと飾りの意味あいがあり、幾何学模様が規則的に並んでいる。その一つから、こちら側をのぞく緑色の瞳が見えた。飾り穴は猫だったら通り抜けられるくらいの大きさだが、三足は乗り出さず、じっと二人を見つめていた。
僕は正門までの道を半分引き返した。ブロック塀の切れ目から花壇のほうへまわり、三足の背中を探した。花壇は積み重ねた二列三段のレンガで囲われていて、三足はそのレンガの道にしゃがみ込んでいた。背中を丸くして首を縮め、穴をのぞいていた。
「来たよ」
ゆっくりと振り向いた三足は、レンガの道を通って僕の所へ来ようとした。巾二十センチほどしかないその道を、どうやって歩いてくるのだろう。心配になって、こちらから迎えに行こうと二、三歩前に出た。
ニャン。 「大丈夫」
三足はそう鳴いて、足元を慎重に確かめながら一歩一歩、ゆっくりと近づいてきた。ピョコン、ピョコン、ピョコンと。
届く所まで来たら抱いてやろうと思った。伸ばした僕の腕に、三足は素直に乗ってきた。
花壇にはオレンジ色が鮮やかなマリーゴールドと、可愛らしい薄紫色のカンパニュラの花が植えられていた。マリーゴールドの花言葉は嫉妬、カンパニュラは感謝。相反する二つの花だが、見事な色のコントラストはまるで有名画家のキャンパスみたいだった。行き届いた手入れには花への愛情が感じられ、僕は思わず見入ってしまった。
ニャン。 「行こう」
三足に促され、来た道を再び戻った。
ゴールを挟んだ反対側に三人掛けのベンチが数個並んでいた。僕はその中の一つに座った。背中を撫でてやると、三足は気持ち良さそうに体を伸ばし、甘えてきた。
「教えておくれ」
とげとげの「玉」ができた原因であろうセイヤのこと、セイヤの家族のことを三足に尋ねた。
三足が言うには、学生時代バスケットに熱中していた父親は、息子にも本格的にやらせたいと思っている。ところがセイヤはどうも運動が苦手で、時々この公園で練習をさせている。父親はスポーツに関して完璧主義で、自分の思い通りに動かない息子にいつも苛立っているそうだ。そんな父親の気持ちを知ってか知らずか、セイヤのほうはどこ吹く風。父親の真似をしてパスやドリブルをしてみるが、いっこうに上達しないのだ。
わかる気がした。本を読みながらフラフラと歩いていたセイヤの姿を思い出した。お世辞にも、活発なスポーツマンタイプとは言えない。家の中で流行のゲームに夢中になっている姿を想像する方が容易だ。現に目の前のセイヤは、ボールを上手にコントロールしているようには見えない。パスは満足に受け取れず、力なく返されたボールは地を這って父親の足元に転がった。シュートはリングに届かない。セイヤのほうが、完全にボールにもてあそばれている。
父親の携帯電話が鳴ったらしい。ズボンのポケットから取り出して耳に当て、父親はゴールから離れていった。残されたセイヤは一人でドリブルの練習を始めたが、すぐにボールのコントロールを失った。低くバウンドしながら、ボールはブロック塀のほうへ転がっていった。追いかけて取りに行くと思ったが、セイヤはその場を動かなかった。体をくねくねと何度も左右にひねり、つまらなそうな顔をして父親の背中をじっと見ているだけだった。
電話を終えて振り返った父親が、息子を見て言った。
「何やってんだよ、ボール取ってこいよ」
セイヤはその声にびくつき、おぼつかない足取りでボールのほうへ駆けていった。
それでわかった。この子は一人じゃ何もできない、何も決められない。手を離れたボールを取りに行くことさえ、誰かの指示がなければできないのだ。二人はまたパスやドリブルの練習を始めた。セイヤの表情は笑顔というにはほど遠く、歪んだまま筋肉が固まっている。僕はそんなセイヤを見るに忍びない気持ちになり、三足と別れて巡回に向かった。
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